623 サンモニ 楽天監督問題 中畑清 「東北出身として中畑清は候補に上がらなかったのかな?オチも東北でしょ」 落合博満 「もう70過ぎたんだからおとなしくしてなさいよ」 (・_・)(・_・) 匿名さん2024/10/27 09:191
625 阪神 ドラフト3位木下 すごそうだなと思うバッターを聞かれると、「本当にプロ野球、分かんなくて。セ・リーグがどこかも分かんないんですよ」と告白。「頭の中に村上(宗隆)選手が(浮かんだ)。村上選手ってすごいじゃないですか。ヤクルトってどっちなんだろう?」と苦笑い。 「プロ野球選手になったけども、セ・リーグとパ・リーグが分からない?」と確認されると、「分からないです」と答え、狩野氏は「ちょっと待って。何してたん? 何が趣味やったの? サッカーが好きやったとか?」とツッコんだ。 「野球はやることが好き」で、「プロを目指して野球をしてきたのではなく、野球を好きで続けてきたら、プロに誘われた」という印象だという木下投手。これまでプロ野球は観戦しておらず、「WBCは見てました?」との問いにも、「決勝の最後だけ…」と笑った。 匿名さん2024/10/27 09:39
627 ◾️石井一久 幼少期は本当はサッカーをやりたかったが流れで野球をやっていた。高校時代は甲子園出場はくら1991年地区大会で活躍し、全12球団のスカウトから「10年に1人、江夏豊に匹敵する左腕」と高評価を得て、同年、意中のヤクルトから単独1位指名。球団の高校生新人選手としては当時最高額となる契約金8000万円で入団。背番号は16。 1992年は12試合に登板。(勝敗は付かず)日本シリーズ第3戦では史上初の「レギュラーシーズンで未勝利の高卒新人ながら先発登板」 1993年、阪神戦でプロ初勝利、1994年は中継ぎ・谷間の先発を担い、リーグ2位の54試合に登板、1995年は初の規定投球回数到達と2桁勝利(13勝)を達成し2年ぶりのリーグ優勝、日本一における中心選手に。 1996年は左肩関節の手術をした影響もあり思うような投球ができず、オフに再び手術。 匿名さん2024/10/27 10:58
629 1997年はシーズン中盤まで渡米し、インディアンスにて左肩のリハビリをする。復帰後はかつての豪速球が復活し、10勝を挙げた。9月2日の横浜ベイスターズ戦でノーヒットノーランを達成。これは4与四球を含むものだったため、横浜バッテリーチーフコーチだった権藤博は「そんな記録に意味はない」と発言。鈴木尚典は「早くメジャーへ行ってほしい」とコメントした。この年、ヤクルトは2年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは第1戦に先発。当時日本シリーズタイ記録の12奪三振で完封。第5戦もリリーフで2勝を記録して日本一に貢献し、自らもシリーズ優秀選手に選出された。なお、同年のオフには女性タレントの神田うのとの交際と、これに対する監督夫人の野村沙知代が痛烈批判。 1998年、自己最多の14勝を挙げ、自身初の最多奪三振を獲得したほか、シーズン三振奪取率11.047の日本新記録を樹立する。一方でシーズン最多暴投の日本記録の所持者となった。 匿名さん2024/10/27 10:58
630 2001年、4年連続の開幕投手を務め、3年連続開幕勝利。先発陣の柱としてチームを牽引、12勝を挙げて優勝に貢献。日本シリーズでも初戦に先発し、8回を1安打12奪三振の好投で勝利する。日本シリーズ優秀選手賞を受賞した。 オフには前年から球団に訴えていたポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を目指したが、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の影響を受け、一時はヤクルトと再契約を結んでメジャー移籍を断念。 2002年1月7日に石井が移籍希望球団として挙げていたロサンゼルス・ドジャースが入札したことを受け、ドジャースと3年1230万ドルで契約を結んだ。 背番号は17。入団会見では妻の元フジテレビアナウンサーの木佐が小学2年から中学2年までロサンゼルス在住だったことを受けて「僕の妻はカリフォルニア人」とジョークを交え、会場の笑いを誘った。 匿名さん2024/10/27 11:03