823 白井文吾 悼む 元々白井さんが03年オフに抜てきした監督だった。 「当初は批判や『何であれを…』という声がすごかった」。 支援企業、中日新聞社には反落合の人たちが大勢いた。 1年目にリーグ優勝すると、うるさかった人たちが一度は「何も言わなくなった」そうだ。 「ただ…」と心配していたのは落合さんの個性。 「上手が言えないんだな」。 監督には企業の社長などに応対する仕事もあるが、落合さんが愛想よくできず、相手が気分を害しているように見えた。 ファンサービスも苦手だった。 〜 黄金期を築きながらも反落合の声はやまなかった。 その間、白井さんは落合さんのことを「辛抱強い。グッと我慢できる」と話していた。 批判の風よけとなっていた自らを投影しているようでもあった。 (・_・) 匿名さん2024/11/05 00:26
825 アントニオ猪木裏面史 いざ帰国すると猪木には希望より不安と焦りのほうが先立った。 66年1月、日プロの社長の座を追われた豊登に追随した木村政雄(のちのラッシャー木村)、斎藤昌典(マサ斎藤)ら8人が入団して最低限の戦力だけは確保していた。 ところが、興行日程はおろか、参加外国人も白紙のまま。 その頃になると「会社にカネがなく、木村がちゃんこ銭を工面している」という情報が猪木の耳にも入ってきたという。 ハワイ滞在中に豊登から聞かされていた「複数の有力スポンサーが付いた。テレビも電通などに働きかけて決まりつつある」という話とは大違いである。 ただ、興行面の出遅れに関しては老舗団体・日プロの企業防衛策という、やむを得ない事情もあった。 東プロの台頭を警戒する日プロは5月に『日本プロレス・プロモーター協議会』を発足させ、「日プロ以外のプロレス興行は買わない」という会則を作っていたのだ。 (・_・) 匿名さん2024/11/05 00:47