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エンタメのひろば 82
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ドラゴンズ、新監督は誰に??
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赤い影
「今は見ちゃダメだ」
ジョンは妻に言った。
「2つ向こうのテーブルに座っている老婦人が2人、僕に催眠術をかけようとしている」
『赤い影』の原作『Don´t Look Now(今は見ないで)』はそんな風に始まる。
これは、ヒッチコックの『レベッカ』『鳥』の原作者として有名なイギリスの女流作家ダフネ・デュ・モーリエが1970年、63歳で書いた中篇小説である。
ヴェニスのレストランで、ジョン・バクスター(ドナルド・サザーランド)が妻ローラ(ジュリー・クリスティ)と食事をする。
ジョンは建築家で、古い教会の復元工事に雇われて、妻ローラと共に水の都ヴェニスに滞在している。
ジョンは老婦人たちに見られていることに気づくが、黙っている。
Σ(・_・)
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VTJ
試合開始のゴングが鳴ると、中井はすぐに低い姿勢からゴルドーに胴タックルに行った。
ゴルドーは逆らわず、中井の頭を右脇に抱えたままロープ際まで後退する。
中井はゴルドーをテイクダウンしようと試みたが、ゴルドーは左腕をトップロープに引っかけて防いだ。
この大会ではロープの使用を禁止されていなかったのだ。
次の瞬間、ゴルドーはためらうことなく右手の指で中井の右目をえぐった。
のちに若林太郎は、この時に何が起きたかを中井にインタビューしている。
《もう話していいでしょう。あれは一発目のサミングなんですよ。開始早々の。バーンとタックル入って組み付いて、すぐやられたんですよ。それがものすごいグワーっとやられて、「このクソオヤジ」と思ったんですけど、眼球が割れたように感じたんですよ。うわ、ひでーな。こんなことするのか。でも、もうあと1回やったらお前の負けだしな。焦ろ焦ろと思ってました》
気が遠くなるほどの痛みが襲ったことは想像に難くない。
だが、驚くべきことに中井はうめき声ひとつ上げず、逃げ出すこともレフェリーにアピールすることもせず、そのまま試合を続行した。
(・_・)
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落合博満
東芝府中時代は5年間で打率.389、70ホーマーを記録。
世界選手権では全日本の3番を打った。
そして、江川卓の「空白の1日」で揺れる1978年ドラフト会議で、ロッテオリオンズから3位指名を受けるのだ。
前年は阪神から誘いがあったが、守備と肩に不安のある落合の評価はどの球団もそこまで高くなく、実際にロッテも全日本の4番で強打の外野手、菊地恭一(東芝)を2位指名している。
しかし、スカウト部長の三宅宅三は、東芝府中の関係者に「三宅さん、菊地より落合の方が上ですよ」とハッキリ言われたという。
ちなみにこの年のロッテは、この菊地と4位の武藤信二が入団拒否。
指名4人中2人が入団拒否という不人気ぶりである。
すでに24歳の落合は、プロだったらどこでも行くつもりだった。
「契約金は問題じゃない。私はただプロでやりたいだけです」と宣言して球団側を驚かせたほどだ。
(・_・)
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今日の選曲🎵
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サンモニ
落合博満
(・_・) 井上一樹を語る
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サンモニ
楽天監督問題
中畑清
「東北出身として中畑清は候補に上がらなかったのかな?オチも東北でしょ」
落合博満
「もう70過ぎたんだからおとなしくしてなさいよ」
(・_・)(・_・)
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阪神 ドラフト3位木下
すごそうだなと思うバッターを聞かれると、「本当にプロ野球、分かんなくて。セ・リーグがどこかも分かんないんですよ」と告白。「頭の中に村上(宗隆)選手が(浮かんだ)。村上選手ってすごいじゃないですか。ヤクルトってどっちなんだろう?」と苦笑い。
「プロ野球選手になったけども、セ・リーグとパ・リーグが分からない?」と確認されると、「分からないです」と答え、狩野氏は「ちょっと待って。何してたん? 何が趣味やったの? サッカーが好きやったとか?」とツッコんだ。
「野球はやることが好き」で、「プロを目指して野球をしてきたのではなく、野球を好きで続けてきたら、プロに誘われた」という印象だという木下投手。これまでプロ野球は観戦しておらず、「WBCは見てました?」との問いにも、「決勝の最後だけ…」と笑った。
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エドマン(ドジャース)先制弾!
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◾️石井一久
幼少期は本当はサッカーをやりたかったが流れで野球をやっていた。高校時代は甲子園出場はくら1991年地区大会で活躍し、全12球団のスカウトから「10年に1人、江夏豊に匹敵する左腕」と高評価を得て、同年、意中のヤクルトから単独1位指名。球団の高校生新人選手としては当時最高額となる契約金8000万円で入団。背番号は16。
1992年は12試合に登板。(勝敗は付かず)日本シリーズ第3戦では史上初の「レギュラーシーズンで未勝利の高卒新人ながら先発登板」
1993年、阪神戦でプロ初勝利、1994年は中継ぎ・谷間の先発を担い、リーグ2位の54試合に登板、1995年は初の規定投球回数到達と2桁勝利(13勝)を達成し2年ぶりのリーグ優勝、日本一における中心選手に。
1996年は左肩関節の手術をした影響もあり思うような投球ができず、オフに再び手術。
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