222 >>217>>219 9月3日に中国共産党が『人民日報』で、「今こそ日本人民は団結して敵と闘うべきである」と事実上、国際派に臨中への帰順を呼びかけた。 全国統一委は所感派と合流しようとしたが、所感派はかさにかかって統一委派を次々と除名し、復党希望者に自己批判を要求した。所感派の高圧的態度に対抗して宮本ら国際派は12月に「日本共産党全国統一会議」を再結成。1万人以上の党員を集め、独自の機関紙や理論誌を持ち、さながら「もう一つの日本共産党」の様相を呈した。 翌1951年2月、ソ連・中共の指示のもと、所感派は第4回全国協議会を開催して軍事方針を含む行動指針、「全国統一会議」を分派認定した「分派闘争決議」を採択。コミンフォルムは同年8月10日にこれを支持した。 当時、共産主義運動は国際的に一つに結束しており、コミンフォルムから分派と認定されると共産党としての正統性を失う状況にあった。これにより所感派が日本共産党を掌握。 コミンフォルムから分派認定を受けた宮本は、自己批判書を複数回提出し、所感派による"日本共産党"に「復党」を認められ、「全国統一会議」は解散した。 匿名さん2023/11/08 07:061
264 >>200>>222>>41 「批判の自由と行動の統一」をレーニンは何より大切にしていた レーニンと分派② 松竹伸幸がわかりやすく解説(2023年11月15日) 匿名さん2023/11/16 08:13