163 >>160 1944年に大阪に生まれた鈴木氏は、高校時代に共産党の青年組織「民主青年同盟」に加入。進学した京都の立命館大学では学生党委員会の委員長に就き、わずか数十人だった学内の共産党組織を1000人規模にまで育て上げた。 部落解放同盟や全共闘との暴力闘争にも体を張って立ち向かい、「京都に鈴木あり」と一目置かれてきた。 「(解放同盟との闘争では)向こうはドスを振り回す者がいて、こちらは椅子を盾に応戦。(中略)私たちは追及を重ね、解同を締め出すことができた。当時の合言葉は『正義は強くなければならない』でした。 大学解体を叫ぶ全共闘の学生と対峙するようになると、暴力はエスカレートしました。素手からゲバ棒や鉄パイプへ、そして火炎瓶へと」 選挙でも鈴木氏の剛腕はいかんなく発揮された。 「1989年の京都市長選では、野中広務氏率いる自民党、公明党、民社党が推す候補に対して、共産党推薦候補を321票差まで肉迫させたこともあります。この一戦は京都政界に知れ渡り、私も手応えがありました」 そんな鈴木氏が志位委員長批判に踏み切ったのは、「もうあかん」という危機感からだった。 匿名さん2023/10/29 07:39