218 >>217 55年7月の第6回全国協議会(6全協)が分裂状態から一定の団結を回復し、極左冒険主義などの誤りにもとづく混乱をただす第一歩となった。 『日本共産党の80年』(中央委員会発行)は第4章のすべてを「50年問題」にあて、2万2千字にわたって詳細に経過と問題点、導き出した痛切な教訓を描きます。 これによって党が受けた打撃の深刻さ――。総選挙では49年1月、得票298万4千票、35議席あったものが、52年10月には89万6千票に激減、すべての議席を失いました。 匿名さん2023/11/07 21:451
225 >>218>>219 1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ講和条約の発効で占領状態が解かれたことでレッド・パージは解除され、日本共産党は10月の総選挙に晴れて参加できたが、前年末から同年夏にかけて全国で猛威をふるった共産党は世論から背を向けられ、衆議院で全議席を失った。 1953年(昭和28年)10月、徳田球一が北京で客死(日本での徳田の死去公表は2年後の1955年)。ソ連の勧告もあって1954年(昭和29年)頃から所感派と国際派は歩み寄りをはじめ、1955年(昭和30年)7月の第6回全国協議会(六全協)で党の再統一を果たし、中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した。 宮本顕治は六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命され、8月2日の常任幹部会で責任者に就任。1958年(昭和33年)8月、第7回党大会1中総で、党書記長に選出された。国際派系が主導権を握ったことにより、🟥以後の党史は宮本の立場を基準としたものとなり、所感派は「分派」として扱われる。 匿名さん2023/11/08 08:47