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キュウちゃんと語ろう 464
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冬場の最低気温のマイナス記号は省略でつ😀
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来年の大河は吉高由里子タンが紫式部を演ずる《光る君へ》
“光る君”のモデル·藤原道長は柄本明の息子·柄本佑
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日本史の教科書が、猿人とか原人とかから始まるのは気に入らねぇ
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那古野城の存在を忘れてはいけない。
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現在の名古屋城二之丸付近には、室町時代から前身となる那古野(なごや)城が建っていました。城主は鎌倉時代後期から名古屋台地北部の那古野の地を領有していた今川氏の一族で、1521〜1524年(大永年間)に城を築いたとされる。
室町幕府が没落し戦乱の世となると、尾張守護代であった織田家の中でも、信長の父・織田信秀が台頭。1538年(天文7)頃、今川義元の弟・氏豊の居城だった那古野城を奪い取り、その後、1546年(天文15)頃に古渡城(現在の名古屋市中区)を築いて居を移すと、信長に那古野城を譲りました。
1555年(弘治元)、当時、尾張の中心だった清須城に信長が移ると、那古野城は信長の叔父にあたる信光が城主に。信光が没すると、重臣である林秀貞の居城となり1582年(天正10)には廃城に。
その後、信長は尾張統一を果たし、1560年(永禄3)、桶狭間の戦いに清須城から出陣。尾張に侵攻してきた今川義元に勝利。そして小牧山城、岐阜城、近江の安土城に拠点を移しながら、天下統一に向けて勢力を伸ばしたが、1582年(天正10)、本能寺の変によって没し、豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられることに。
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しかし、1598年(慶長3)、秀吉が伏見城に没すると、天下の情勢は豊臣方と徳川方に二分される事態に。そして1600年(慶長5)、天下分け目の関ヶ原の合戦により、徳川方が豊臣方に勝利。
信長が小牧城に移った後、清須城には信長の次男・信雄(のぶかつ)、秀吉の甥・秀次、福島正則が入り、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、四男・松平忠吉、九男・義直を入城させます。
当時まだ大坂には秀吉の子・秀頼が城を構えており、家康は秀頼や豊臣家の家臣を牽制するために、尾張の守りを重視していました。いずれ豊臣方と戦う日に備えて大坂と江戸を結ぶ東海道の防衛を固めておかなければならず、その中間点に位置する尾張に徳川の砦を置く必要があったのです。それは巨大な軍事要塞でもあった名古屋城築城へとつながっていきます。
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ロドは、江戸城は徳川家康が江戸幕府を開き江戸城を築く前から、そこらの場所は貧しい漁村で「ショボい城(砦?)があった」とか言いいつつ、名古屋城は江戸時代になってから築城されたとかうんちくを言っていたが、名古屋城が築城される前は、その地には那古野城(なごやじょう)が室町時代から存在したことを知らないか、知らないふりをしている。(笑)
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▪️江戸城とは
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年、駿府(静岡)から江戸に入った。
一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺(からぶき)の家が、
100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていたという。
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江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っている。
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>>266
「戦国時代の当時は江戸は辺境地だった」的な表現はWikipediaはもちろん、教科書や読みものなど、ごく普通に本やネットやテレビやラジオで語られている話である。
しかし、それをここで口にしただけで、顔を真っ赤にして鼻息を荒くて、全身全霊をかけて否定してくる人がいたが、いったいどういうつもりなのだろうか。😆
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一般論を全力で否定か!どっかの国の将軍様か?笑
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