805 アントニオ猪木 猪木の「二番手は嫌。一番手でなければ気が済まない」という、まだ誰も気付いていない自己顕示欲と反骨精神が浮き彫りになったのは66年3月、ハワイで日プロへの凱旋を拒否し、東京プロレス入りを表明した時である。 この選択を一般サラリーマンに置き換えると、超一流企業に入社済みの若者が、突然登記されたばかりのベンチャー企業にクラ替えするようなもの。 周りから見れば、まったく理解できない行動だった。 日本テレビと年間放映契約を結び、全国にしっかりした興行地盤を持つ日プロに残留すれば、帰国後の生活は確実に安定する。 対照的に、旗揚げシリーズの概要さえ決まっていない東プロに移籍するのはリスクが大きすぎる。 そんな簡単なことは23歳の若者にもわかっていたはずだが、豊登から新団体のエースと社長の座を約束された猪木は移籍を決意する。 カネより名誉。この点だけは若い頃から一貫している。 (・_・) 匿名さん2024/11/04 00:29