618 赤い影 「今は見ちゃダメだ」 ジョンは妻に言った。 「2つ向こうのテーブルに座っている老婦人が2人、僕に催眠術をかけようとしている」 『赤い影』の原作『Don´t Look Now(今は見ないで)』はそんな風に始まる。 これは、ヒッチコックの『レベッカ』『鳥』の原作者として有名なイギリスの女流作家ダフネ・デュ・モーリエが1970年、63歳で書いた中篇小説である。 ヴェニスのレストランで、ジョン・バクスター(ドナルド・サザーランド)が妻ローラ(ジュリー・クリスティ)と食事をする。 ジョンは建築家で、古い教会の復元工事に雇われて、妻ローラと共に水の都ヴェニスに滞在している。 ジョンは老婦人たちに見られていることに気づくが、黙っている。 Σ(・_・) 匿名さん2024/10/27 00:35
619 VTJ 試合開始のゴングが鳴ると、中井はすぐに低い姿勢からゴルドーに胴タックルに行った。 ゴルドーは逆らわず、中井の頭を右脇に抱えたままロープ際まで後退する。 中井はゴルドーをテイクダウンしようと試みたが、ゴルドーは左腕をトップロープに引っかけて防いだ。 この大会ではロープの使用を禁止されていなかったのだ。 次の瞬間、ゴルドーはためらうことなく右手の指で中井の右目をえぐった。 のちに若林太郎は、この時に何が起きたかを中井にインタビューしている。 《もう話していいでしょう。あれは一発目のサミングなんですよ。開始早々の。バーンとタックル入って組み付いて、すぐやられたんですよ。それがものすごいグワーっとやられて、「このクソオヤジ」と思ったんですけど、眼球が割れたように感じたんですよ。うわ、ひでーな。こんなことするのか。でも、もうあと1回やったらお前の負けだしな。焦ろ焦ろと思ってました》 気が遠くなるほどの痛みが襲ったことは想像に難くない。 だが、驚くべきことに中井はうめき声ひとつ上げず、逃げ出すこともレフェリーにアピールすることもせず、そのまま試合を続行した。 (・_・) 匿名さん2024/10/27 01:05
620 落合博満 東芝府中時代は5年間で打率.389、70ホーマーを記録。 世界選手権では全日本の3番を打った。 そして、江川卓の「空白の1日」で揺れる1978年ドラフト会議で、ロッテオリオンズから3位指名を受けるのだ。 前年は阪神から誘いがあったが、守備と肩に不安のある落合の評価はどの球団もそこまで高くなく、実際にロッテも全日本の4番で強打の外野手、菊地恭一(東芝)を2位指名している。 しかし、スカウト部長の三宅宅三は、東芝府中の関係者に「三宅さん、菊地より落合の方が上ですよ」とハッキリ言われたという。 ちなみにこの年のロッテは、この菊地と4位の武藤信二が入団拒否。 指名4人中2人が入団拒否という不人気ぶりである。 すでに24歳の落合は、プロだったらどこでも行くつもりだった。 「契約金は問題じゃない。私はただプロでやりたいだけです」と宣言して球団側を驚かせたほどだ。 (・_・) 匿名さん2024/10/27 01:56
623 サンモニ 楽天監督問題 中畑清 「東北出身として中畑清は候補に上がらなかったのかな?オチも東北でしょ」 落合博満 「もう70過ぎたんだからおとなしくしてなさいよ」 (・_・)(・_・) 匿名さん2024/10/27 09:191
625 阪神 ドラフト3位木下 すごそうだなと思うバッターを聞かれると、「本当にプロ野球、分かんなくて。セ・リーグがどこかも分かんないんですよ」と告白。「頭の中に村上(宗隆)選手が(浮かんだ)。村上選手ってすごいじゃないですか。ヤクルトってどっちなんだろう?」と苦笑い。 「プロ野球選手になったけども、セ・リーグとパ・リーグが分からない?」と確認されると、「分からないです」と答え、狩野氏は「ちょっと待って。何してたん? 何が趣味やったの? サッカーが好きやったとか?」とツッコんだ。 「野球はやることが好き」で、「プロを目指して野球をしてきたのではなく、野球を好きで続けてきたら、プロに誘われた」という印象だという木下投手。これまでプロ野球は観戦しておらず、「WBCは見てました?」との問いにも、「決勝の最後だけ…」と笑った。 匿名さん2024/10/27 09:39
627 ◾️石井一久 幼少期は本当はサッカーをやりたかったが流れで野球をやっていた。高校時代は甲子園出場はくら1991年地区大会で活躍し、全12球団のスカウトから「10年に1人、江夏豊に匹敵する左腕」と高評価を得て、同年、意中のヤクルトから単独1位指名。球団の高校生新人選手としては当時最高額となる契約金8000万円で入団。背番号は16。 1992年は12試合に登板。(勝敗は付かず)日本シリーズ第3戦では史上初の「レギュラーシーズンで未勝利の高卒新人ながら先発登板」 1993年、阪神戦でプロ初勝利、1994年は中継ぎ・谷間の先発を担い、リーグ2位の54試合に登板、1995年は初の規定投球回数到達と2桁勝利(13勝)を達成し2年ぶりのリーグ優勝、日本一における中心選手に。 1996年は左肩関節の手術をした影響もあり思うような投球ができず、オフに再び手術。 匿名さん2024/10/27 10:58