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キュウちゃんと語ろう 464
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冬場の最低気温のマイナス記号は省略でつ😀
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>>256
メソッドが正しいが事実はその限りではないというなら、ひるがえって○○病は××なんだよという事実に関する見識のマウントが成り立たん。スムーズに破綻するね。お見事。
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古渡城も記念碑くらい建っとる気がするけど。
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金山神社も鍛冶とかに縁があるそうで、金属業ではありがたがられると聞いたね。金山って総合駅のあの金山。
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>>268
別に江戸が(非常に広義の意味で)辺境地であったコトを否定なぞしてませんねえ
ただ、家康が江戸に移封された後、江戸時代になってから名古屋の街は起こったんだよ、と言ったら四の五の屁理屈並びたてて
『江戸は”文字通り”の辺境だ』
とモノを知らないカタワが自説に固執してるから、いやいや、江戸は(狭義の意味の、本当の)辺境ではないよ、と、こんこんと諭しただけで
ほら、モノをしらないカタワくんはこんなけ無知だし馬鹿なんだもん
武田滅亡直後、織田領国が最大になった時点の地図を掲げて
『江戸は“辺境”だ』
だって
マヂ、無知な上に考察力洞察力も欠落した馬鹿だよね
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▪️古渡城(ふるわたりじょう)
1534年(天文3年)に織田信秀により尾張国愛知郡、現在の愛知県名古屋市中区に築城された日本の城。平城。1548年(天文17年)に廃城となった。織田信長が元服した城として知られる。
天文3年(1534年)、織田信秀が東南方に備えるために築城した城。信秀は今川氏豊から奪った那古野城を、嫡男吉法師(織田信長)に譲り、この城を拠点とした。
東西140メートル、南北100メートルの平城で、四方を二重の堀で囲まれていた。
天文15年(1546年)、信長は古渡城にて13歳で元服する。
天文17年(1548年)、美濃に侵攻した信秀の留守を狙い、清洲の守護代織田信友の家臣坂井大膳らが城下に攻め寄せ、この際に町は焼かれたが、落城はしなかった。同年、信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか14年で廃城となった。
遺構として、真宗大谷派名古屋別院敷地内にある古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園(真宗大谷派名古屋別院に隣接)がある。
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荒子観音も前田利家と縁があるそうで、ネタ的に良いんちゃうかな。
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>>270
なんか訳わからないこと書いてんな(苦笑)
正しい解答を導く為の、少なくともその確率をあげる為のメソッドって書かなきゃわかんないのか?
マスコミの報道だって両論併記して最終的にその解答を視聴者に委ねるなんて事は基本中の基本なのな。
底辺の分際で跳ねっ返りやがって、クソが。
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今池行くと、歩く元気があるときは高牟神社にお参りするよ。
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>>264
《(対豊臣政略での)中間点に位置する尾張に徳川の砦を置く必要があったのです。それは巨大な軍事要塞でもあった名古屋城築城へとつながっていきます》
⇒
つまり、江戸に家康が移って秀吉死語の豊臣との権力争奪戦がなければ名古屋のその後の発展もなかった訳
少なくとも、家康江戸移封後は常に名古屋は江戸からみての”拠点”に過ぎなかった、ッてコト
>>265
織田時代の那古野城なんてさあ、単なる領主一族の居館を兼ねた砦に毛の生えた程度の城、所謂いくつもあった“支城”の一つに過ぎない小城だわなあ
城下町すらなかっただろうと思われる
信長だって那古野を廃城にして清須に移って、その後数十年荒れ果ててるどころか痕跡残ってた程度と考えられるわな
今の名古屋城は信長以前の那古野城と場所が同じ、とゆ〜だけでその痕跡だって殆んど残ってない(今の名古屋城に飲み込まれた)のだから
時代は違うが、扇谷上杉家の重要拠点で上杉の家宰·太田道灌が居城した当時の江戸城の方が重要性は上だろうな
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