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キュウちゃんと語ろう 464
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冬場の最低気温のマイナス記号は省略でつ😀
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▪️誓願寺 源頼朝誕生地 熱田区
熱田神宮と通りをはさんだ向かいにあった。
信長は清洲城を飛び出て、熱田神宮で戦勝祈願をして、南西の今川軍に向かった。
その勝利後、戦勝を記念し、熱田神宮に寄進した築地塀(信長塀)がある。
源頼朝の母(由良御前)が身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれ、この隣には、頼朝の助命を嘆願した池禅尼の「池殿屋敷」があったと伝えられている。
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▪️成海神社(鳴海城跡) 緑区
永禄二(1559)年、今川方の猛将岡部元信が守った鳴海城。
▪️善照寺砦 緑区
先の鳴海城の備えとして、信長が築いた砦で、桶狭間に今川義元を奇襲する前に、信長はここに兵を集結させた。
善照寺砦は、高台にあり、周囲を見渡せる。今は砦公園になっている。
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▪️吉田城
現在は愛知県東部の都市・豊橋市の豊橋公園内にある。
戦国時代に今川氏・武田氏・徳川氏(松平氏)の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。
吉田城の歴史は、1505年(永正2年)、今川氏配下の一色城主・牧野古白(まきのこはく)によって、築城され、その後今川勢と徳川勢の間で争奪戦が繰り返されますが、1564年(永禄7年)、徳川家康は吉田城を落とし、酒井忠次を吉田城主に命じた。
そして1590年(天正18年)、豊臣秀吉によって家康が関東に移封されると、池田輝政が吉田城主となります。関ヶ原の戦い後、輝政は姫路藩に栄転。江戸時代から明治維新までは、9家22代の譜代大名が次々と吉田藩の藩主を務めました。
しかし、1873年(明治6年)、吉田城では火事により多くの建物が焼失。1875年(明治8年)には陸軍歩兵第18連隊が吉田城跡に置かれ、翌年、焼失を免れた建物も取り壊されてしまいました。なお、現在復興された鉄櫓(くろがねやぐら)は、1954年(昭和29年)に再建された物です。
現在、豊橋公園のなかには、吉田城をしのばせる痕跡が数多く現存してます。
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誓願寺は一応まだあるよ。
一応というのは、空襲で焼けたようなので。
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▪️長篠城
奥三河の山間部にあった城。騎馬隊を誇る武田軍と、鉄砲隊を取り入れた織田軍・徳川軍がぶつかり合った「長篠の戦い」の前哨戦となる壮絶な籠城戦が長篠城で繰り広げられました。
長篠城は、1508年(永正5年)、菅沼元成によって築かれ、1573年(天正元年)、徳川家康は武田側についた菅沼氏の長篠城を攻落。1575年(天正3年)、家康は奥三河の小豪族で徳川側にしたがった奥平信昌を長篠城主に任命し、武田氏の侵攻に備えます。
同年5月、武田勝頼は15,000の軍を率いて、500の兵が守る長篠城を攻撃。長篠城は、信長・家康の援軍が駆けつけるまでの約10日、籠城戦を耐え抜きます。援軍が到着すると、武田軍は長篠城の包囲を解き、城から西に約4kmの設楽原で織田・徳川軍と対決しました。騎馬隊VS鉄砲隊の戦いを繰り広げますが、勝頼は多くの将兵を失い敗走。戦いには勝ったのですが長篠城の損壊は大きく、翌年、信昌は新城城に移り、長篠城は廃城に。
現在、長篠城跡の入り口には「長篠城址史跡保存館」があり、長篠城の籠城戦や設楽原の決戦(長篠の戦い)に関する資料の展示や歴史解説を見ることができます。
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▪️小牧山城
桶狭間で今川義元を討った後、信長が初めて築いた城。
史跡情報館「れきしるこまき」も見どころ満載
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▪️桶狭間古戦場伝説地・高徳院
織田信長軍と今川義元軍がこの付近一帯で戦った。伝説地には今川義元の碑が建つ。場内には義元公の仏式墓所や亡霊を鎮めるために建立したお化け地蔵等がある。
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▪️織田信長の実弟が建てた国宝茶室
犬山観光に訪れたならぜひとも立ち寄りたいのが国宝茶室「如庵」のある【有楽苑】国宝犬山城の東にあります。
「如庵」は、茶の湯の創世期に尾張の国が生んだ大茶匠・織田有楽斎が建てた茶室。昭和11年(1936年)には国宝の指定をうけた茶道文化史上貴重な遺構で、京都山崎妙喜庵内の待庵、大徳寺龍光院内の密庵とともに、現存する国宝茶席3名席の1つとなっています。
昭和47年(1972年)に犬山城下に移築され、庭園を含め「有楽苑」と名付けられました。月に1度内部見学会を実施しています。
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▪️桶狭間古戦場公園 名古屋市緑区
織田信長が今川義元を討ち取った有名な合戦の舞台となった「桶狭間古戦場公園」。この一帯は桶狭間の戦いの中心地で、公園のあたりは義元が討ち取られた場所とされています。合戦当時の地形、城、砦などがジオラマ化され、公園中央には織田信長と今川義元の銅像も。
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