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キュウちゃんと語ろう407
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サムい🥶
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>>388
《植民地》とゆ〜言い方なら、石高云々は関係あるだろうが、ヲマエさんはあくまでも
《飛び地》
と言ったからな(ヲマエさんが
>>313だとして)
《飛び地》に石高の増減関係ないだろ
それに、さっきも言ったが、父祖の地失っても尚、国替の地を父祖の地の
《飛び地》
たあ言えんだろう😀
敢えてゆ〜なら《新天地》であって
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>>400
しかしながら、切り返しとしてはかなり的外れだと言う事は明らかだな。
402
江戸に幕府を開き城下町を築き上げたのは三河から出た徳川家康で、265年間に渡る江戸の時代を造ったのは徳川家康という事実は揺るぎない。
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天下を統一し、江戸に幕府を開き城下町を築き上げたのは三河から出た徳川家康で、265年間に渡る江戸の時代を造ったのは徳川家という事実は揺るぎない。
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ちゃんとキリ番やゾロ目は獲るようにしてください
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>>399
そのあら近辺の前田家は、福島正則の時代や徳川信吉、義直の時代に土地の支配権を持っていたか?検断権を持っていたか?
持ってないわな
つまり、荒子に残ってる前田さん達は被支配される側な
それで《石川は前田の飛び地》たあとてもじゃないが言えんぞ
出直おせ😀
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加賀百万石の藩祖といわれる前田利家は、天文6年(1537)、利昌の四男として現在の中川区に生まれました(天文7年説もあり)。幼名は犬千代といい、十五歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦の一つ萱津の戦いで初陣を飾りました。22歳のとき、10歳下のいとこ「まつ」と結婚。この頃、又左衛門利家と名を改めています。若年の頃は派手で、奇抜な振舞いを好み、武勇にも優れ槍の又左と呼ばれました。桶狭間戦の頃は牢人していましたが、織田軍の中で参戦し、翌年の美濃攻めの戦功で復帰。その後は赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍、信長の上洛に従っています。33歳のとき、信長の命で荒子城主に。信長の北陸戦略に従い、さらに石山本願寺戦にも参戦、武田騎馬軍団を粉砕した長篠の合戦では鉄砲隊を指揮しています。信長の政策により、府中(福井県越前市)を他の武将とともに治め、のち能登一国を領有します。 本能寺の変後の賎ヶ岳戦では柴田勝家側でしたが、優れた洞察力によって前田家を守り、豊臣秀吉を補佐する大名に成長、加賀百万石の礎を築きあげました。
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>>405訂正
そのあら近辺の前田家は
→
その、荒子近辺に(前田利家の国替後に)残ってる前田家は
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>>400
まぁ、飛び地というよりも、加賀百万石の藩祖が現名古屋市中川区の出だという事だな。
飛び地ってのはだいぶ謙遜している。
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現東京は現愛知県の飛び地ではないが、
首都東京の前身、江戸幕府を開いたのは、天下を統一した三河(現愛知県)から出た徳川家康という歴史の事実。
飛び地というのはちょっとギャグを込めた言い方だな。
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