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エンタメのひろば 63
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【インフィールドフライ】
無死、または1死1・2塁、または満塁の場面で、打者がフェアの打球を打ち上げたとき、普通のプレーを行えば内野手が捕球できる場合に審判によって適用される。
審判がインフィールドフライを宣告すれば、たとえ野手が落球したとしても、打者はアウトになる。
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🐮ノ 佐藤輝明はコンスタントに170キロ台を出しとるラしい
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111✨
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山田玲司
ガンダムの富野さんとその後にくるエヴァの庵野さんは同じ、裸踊りの芸風。両作品とも画面越しにパンツを脱いだ富野さんや庵野さんがガンガン迫ってくる。(笑)
作家性を全面に出した人はなかなか見当たらない。宮崎駿もそう。そういう人たちの作品は普遍的になっている。
😆
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根尾は杉下茂の再来や 😆
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>>107
《正に妖怪》
ナベツネか杉下か
(。・_・。)ノ恐怖だ
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あ〜ジャイアント馬場のプロ初先発の試合がレジェンド杉下茂のちょうど200勝達成試合だったという。
・_・。)(・_・ノ)ノ
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アンドレ・ザ・ジャイアント
アンドレと日本のプロレス界はつねに特別な関係にあった。
ヨーロッパ・マットからの招聘ルートに乗って、モンスター・ロシモフは1970年から72年まで国際プロレスに3回来日。
初来日時はマイケル・ネイダーとのコンビでサンダー杉山&グレート草津を下しIWA世界タッグ王座を獲得。
71年の『第3回IWAワールド・シリーズ』、72年の『第4回IWAワールド・シリーズ』に連続出場した。
第3回大会ではカール・ゴッチ、ビル・ロビンソンとの3者同率の決勝リーグで僅差のポイント差を制して初優勝。
ゴッチとの公式戦では“神様”からフォール勝ちを奪った。
これがアンドレの日本における最初の記念碑的なシングルマッチだった。
アンドレ対ゴッチ、アンドレ対ロビンソンという夢のカードが昭和40年代の国際プロレスで実現していたのは不思議な感じがする。
水曜夜7時のゴールデンタイム番組だった『国際プロレス中継』(TBS)で放映されたこれらの試合映像は残念ながら残っていない。
(・_・)
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「殺人の追憶」 その後の物語
ポン・ジュノの映画的成功を招いた『殺人の追憶』は1980年代後半に韓国をパニックに陥れた華城連続殺人事件をヒントにした戯曲『私に会いに来て』をソースにしている。
長年の間、韓国三大未解決事件の筆頭に置かれた華城連続殺人事件は2019年9月、別の殺人事件で収監中のイ・チュンジェがDNA判定の結果、10人の女性を殺害していたことが判明し、急転直下で真相が解明されつつある。
今では「イ・チュンジェ事件」と呼ばれ、真相解明の審議がなおも続いている。
『殺人の追憶』はイ・チュンジェ事件の厳密な再現映画ではない。
映画は主役の2人の刑事の性格の差に重きが置かれている。
(・_・)
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ドラゴンズ血風録
中日は2014年から落合GM、谷繁監督の新体制でスタートしましたが、時間が経過するにつれて亀裂が目立ってきました。
谷繁監督と森ヘッドコーチの関係がだんだんと怪しくなっていったからです。
落合GMは新指揮官に谷繁監督を選びましたが、主なスタッフは腹心である森ヘッドが集めていました。
森ヘッドは落合GMが中日に復帰すると聞いたときは監督として戻ってくると思っていたみたいです。
それがまさかの谷繁監督。
ヘッドコーチとして支えるのが落合監督ではなく、谷繁監督になったことに複雑な思いもあったのでしょう。
(・_・)
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