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エンタメのひろば36-4
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今度も、わたし(@◎@)とオレ( - )が
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蒼い時
同じ頃、あの人が母に対して「百恵の親権を渡せ」と法律的な要求をしてきた。昔、しぶしぶ認知を承諾したあの人に、今さら、私の親権をとやかく言う資格などあるはずもない。
ある日、母が静かに私の部屋へ入ってきた。
父から何百万かのお金を要求されたのだという。
それだからといって、私の働いたお金を父と母、二人の後始末のために使うのは忍びないのだという。
「お金で解決がつくなら、何百万でも、何千万でも、どこに借金したっていいから払ってしまえばいい。どうせ、あの人はお金が欲しいのでしょうから」
金銭で血縁を切る。
あの人の存在は消えたのではなく、自ら私の手で切ったのである。
(・_・)
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UWF
いかなる事情があろうとも、メインイベンターは観客の感情を自在に操って興奮の坩堝に叩き込まなくてはならない。
再び会場に足を運んでもらうために。
それだけの重責を背負うからこそ、誰よりも高いギャランティを受け取ることができるのだ。
観客が叫んでいたのは、新団体のエースの名前ではなかった。
観客はこう言いたかったのだ。
「前田、お前の試合はつまらない。猪木や藤波や長州を出せ!」と。
(・_・)
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控室に戻った前田は、記者たちに向かって反省の弁を述べた。
「俺は未熟だ。プロとして魅せる試合ができない」
25歳の若者の率直な言葉は、聞く者の胸を打った。
前田は甘いマスクと立派な体格の持ち主だが、アントニオ猪木のような天性のショーマンシップも、佐山聡のような天才的な運動神経も持ち合わせてはいなかった。
しかし、前田日明は心に響く言葉を持っていた。
素直で温かい心の持ち主は、いま自分が置かれている状況を客観的に見ることのできる知性も兼ね備えていた。
だが、多くの人々が前田日明の魅力に気づくまでには、さらに数年の時間を必要とした。
(・_・)
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日本とモハメド・アリ
日本とモハメド・アリの関係性と言えば、何といってもアントニオ猪木との異種格闘技戦が有名だ。
だが、アリがマック・フォスターとの試合のため日本に初来日したのは1972年3月のこと。
長きブランクから復帰したものの、前年にはジョー・フレージャーに初黒星を喫しており、30歳になっていたアリはすでに「衰え」を指摘する声とも戦わなければならないベテランとなっていた。
(・_・)
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低迷する韓国プロレスを復興するために、キム・イルとキム・ジョンピルが打った次の手は、タイガー・ジェット・シンの登場以来、日の出の勢いで上昇を続けるアントニオ猪木と新日本プロレスの韓国招聘であった。
すでに猪木とキム・イルは東京の蔵前国技館で死闘を演じ、超満員の観客を熱狂させた。
猪木を呼べば、キム・イル相手にもの凄い試合をしてくれるに違いない。
75年3月、新日本プロレスは韓国遠征を行った。
アントニオ猪木がキム・イルの持つインターナショナル・ヘビー級選手権に挑戦した試合は、猪木がキム・イルに4の字固めをかけたまま場外に転落し両者リングアウトによる引き分けに終わっている。
(・_・)
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試合翌日には、猪木、キム・イルら日韓レスラーが揃って首相官邸に行き、国務総理となっていたキム・ジョンピルに表敬訪問を行った。
この時、キム・ジョンピルは猪木に「凋落している韓国プロレスの発展を助けてほしい」と依頼している。
一行の中には、柳川次郎もいた。
在日韓国人の柳川次郎は「戦後最も凶悪にして凶暴な暴力団」柳川組の元組長である。
柳川次郎の名前が広く知られるようになったのは、柳川組結成直後の1956年2月。
大阪・西成地区最大の麻薬売春暴力団・鬼頭組と死闘を演じたのだ。
以後、柳川次郎は「殺しの柳川、人斬り次郎」として、日本中の暴力団員から恐れられる存在となった。
1959年に山口組傘下に入った柳川は、力道山と兄弟分になり、61年5月からは日本プロレスの興行も手がけていた。
(・_・)
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今のところ、先発で1番好投している
バルデス。相変わらず『勝ち運』はないですな(´・Д・)」
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あ〜こらえきれずガス欠。
・)」!!(・_・ノ)ノ
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『RIZIN』
真珠オークライヤー
年内デビュー決定
(・_・)
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SONGS
MIYAVIX木村拓哉
(・_・)
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