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(・ω・)←八王子のキンタマと戯れるスレ-5
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キンタマ先生がホスラバーと仲良く ディスカッションするスレでござる ニンニン
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>>972
愛情なしに100年1000年を生きたとてそんな人生に価値なし。
愛情を否定する者は本当の真理を知らぬ愚か者である。愛情を否定した釈迦は愚か者である。
人の心(愛情)を捨てた釈迦は“人でなし”であったと言えよう。
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愛情なき者に本当の真理は分からない。釈迦は自分にとらわれていて愛情がない人だった。だから釈迦は最後まで真理を悟れなかったのだよ。
982
>>980
君が単に釈迦の言葉を理解する域に達してないだけ。
釈迦は人間が持つ自然な感情としての愛情を完全に否定していません。愛情や思いやりは、他者との関係を築く上で重要な要素です。彼の教えの目的は、こうした感情そのものをなくすことではなく、その感情に縛られないこと、つまり執着を手放すことによって、心の苦しみから解放されることでした。
簡潔に言えば、釈迦は「愛すること」自体を否定したのではなく、「愛を失うことへの恐れや、愛に依存すること」を問題視したのです。真の愛情は、執着を手放したときに初めて生まれる、と考えるのが釈迦の教えの本質と言えるでしょう。
釈迦の言ってる事はその辺の綺麗事とは違い、現代社会の問題さえも解決に導くものですよ。
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特に現代社会は愛に苦しめられる場面が多いように感じられますね。執着に根ざした愛情は、自己の存在価値や社会的地位と深く結びついていることが多いです。
ホストに愛されたい、エリートに愛されたい、あるいはダメな人を放っておけないという感情は、まさにその典型です。
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聖帝サウザーが苦しんだのも、仏教でいう*貪愛(タンハー)によるもの、つまりは執着。
師であるオウガイが無償の愛を捧げたにも関わらず、サウザーは執着の愛に苦しむとは皮肉な話ですね。
執着の愛に捉われ続けた男が聖帝サウザー。
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>>982
「釈迦は低レベルな愛情を執着と否定したが無償の愛情は否定してない。いやそれをこそ説いた」みたいな詭弁を使って仏教をきれい事で表現するな。
私が上に書いたことは仏教の真実であり間違ってない。釈迦は無償の愛なんて説いていない。
人の心を捨てて「生ける屍」になることを説いたアイツは、愛情は修行の邪魔としか思ってなかった。
アイツは人の心(愛情)を持って人として生きることから逃げたのだ。
既に釈迦は嘘つきであるネタはちゃんとあがってんだよ。
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釈迦が嘘つきである決定的な証拠、「因果応報」。
因果応報なんてものはナンセンスなオカルト話でありそんなものを説いた釈迦は頭が悪いオカルト馬鹿であったことの証拠である。
「人は心や行動の善悪で裁くことができる」従って「心の状態が悪い者は仏法の裁きによって地獄にいく」。「善因善果、悪因悪果はこの世の絶対的真理である」 ←大嘘ロングビーチ
この世は大昔から自然に「サイコパス」(善悪の観念から切り離されてる者たち。最初から善悪の観念が無いので、彼らの行動を心を善悪で裁くことは最初から不可能である。)が次々に生まれている。
これはこの世自身が昔からやってきたことである。
この世に「因果応報」なとどという釈迦の妄想はこの世の最初から通用しない。
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>>985
浅くて歪んでて誤解してますね。
正しく理解して下さいね。
ブッダが説いた「他者への愛情」と「執着」の関係性は、複雑で奥深いものです。彼は、単に愛情そのものを否定したわけではありません。むしろ、愛情が形を変えて苦しみの原因となる執着に変わることを警鐘しました。
愛情と執着の違い
ブッダの教えにおいて、愛情は大きく二つに分けられます。一つは、純粋で利他的な「慈悲(メッター)」や「悲(カルナー)」です。これは、見返りを求めず、相手の幸せを心から願う心です。例えば、親が子に抱く無条件の愛がこれに近いと言えます。この種の愛情は、心の安らぎや平和につながるとされています。
もう一つが、**貪愛(タンハー)**です。これは、相手を「自分のものにしたい」「失いたくない」というエゴに基づいた愛情です。この貪愛こそが、ブッダが執着として問題視したものです。なぜなら、この執着は相手をコントロールしようとしたり、期待通りにいかないことで苦しみや怒りを生み出したりするからです。
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ちなみに、大嘘ロングビーチは
大磯ロングビーチのモジリ冗談だ
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