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エンタメのひろば 81
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パリオリンピック
250
石垣 0.12億
根尾 0.12億
メヒア 0〜0.5億?
フェリス 0〜0.5億?
ビシエド 0?
ディカ 0?
大島 0?
中島 0?
田島 0?
砂田 0?
251
木下 0.5億+出来高
雄大 0.5億+出来高
252
松葉 0.5億+出来高
253
↑
A.Iは単年契約の算出は早いが、F A権が絡んでいる選手の算出は、係数調整が入る為に時間がかかったりパクったりするみたいだね。知らんけど。
254
↑
A.Iは単年契約の算出は早いが、F A権が絡んでいる選手の算出は、係数調整が入る為に時間がかかったりバクったりするみたいだね。知らんけど。
255
巨人軍 ✕ 阪神
東京ドーム最終戦
(・_・) 阪神、ファンに挨拶なしで即帰
256
西武 ✕ ソフトバンク
西武、30勝到達
(・_・) 72敗
257
MUSIC SP(再)
あいみょん 甲子園ライブ
(・_・)
258
落合博満
現役を引退して5年、ベイスターズの監督だった森まさあきに頼まれて臨時コーチを3日務めた以外にはコーチ経験のなかった落合が、果たして監督としてチームを勝たせることができるのか。
その答えは振り返ってみれば「イエス」だった。
選手としての仕事はチームを勝たせることではない。
選手としてはたとえチームが勝てなくてもヒットやホームランを打つことが仕事であり、監督としてはたとえヒットやホームランがなくてもチームを勝たせることが仕事である。
そこに徹するプロ意識を持ち続けることが落合のこだわりであり、だからこそ選手としてはヒットとホームランを量産し、監督としてはチームにたくさんの勝利をもたらすことができた。
つまり落合は、監督になってからも選手のときと同じように己の仕事に徹したのである。
(・_・)
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愛甲 猛
波乱万丈だったプロ生活の転機となったのは、心機一転を図った96年の中日ドラゴンズ移籍だった。
「自由契約になったので、“たとえ給料が半分になってもいいから野球を続けよう”と考えていたら、ロッテ時代にお世話になった高畠さんから電話があって、“星野さんがすぐ獲れと言っている”ということで中日移籍が決まりました」
95年シーズンは広岡GM、そして「広岡派」と呼ばれるフロント、首脳陣とそりが合わずに出場機会は激減していたが、星野仙一監督は「まだまだやれる」と踏んでいた。
いわゆる「管理野球」と称された広岡GM時代とは異なり、「闘将」と呼ばれ、表裏なく、感情の起伏が激しい星野監督の下での野球は楽しかった。
移籍4年目となる99年には規定打席不足ながら、打率.387を記録し、星野監督の胴上げに貢献した。
しかし─。
この頃にはすでに愛甲は禁断の扉に手をかけてしまっていた。
(・_・)
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