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エンタメのひろば 70
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スタン・ハンセン
ラリアットの元祖。
猪木(NWF)と馬場(PWF)の両トップから団体の看板タイトルを奪取した功績が光る。
ハンセン独特の雄叫びの発音が「ウィー!」ではなく「Youth(ユース=青春、若さ)」だったとの本人談は、古くからのファンに軽く衝撃を与えた。
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元中日、平田と滝野は似たところがある。
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三菱ジェット舞いあがらず
「夢のある話には、必ずリスクを覚悟しなければなりません」
13年、「航空機部品に特化してはどうか」と提案する菱崎重工に対し、そう言った町工場の経営者がいる。
IWAKURAの岩倉めぐみ社長。
朝ドラ『舞いあがれ!』で永作博美が演じる、ヒロイン舞(福原遥)の母だ。
航空機部品への参入は父(高橋克典)の代からの夢。
舞も東大阪の町工場が協力し、部品を製造するプランを熱く語っていた。
しかし、めぐみ社長が出した答えは、「なんとか今の形守ってコツコツと続けていくのが精一杯です」菱崎からの提案を断ったのだ。
それから、ちょうど十年。
夢の“日の丸ジェット”は舞いあがらなかった。
三菱重工業は2月7日、国産初の旅客ジェット機「三菱スペースジェット」の開発中止を発表した。
経産省も500億円を支援したが、事実上の撤退となる。
下請け企業に与えた影響も少なくない。
三重県松阪市には地元企業十社で結成した航空機部品生産協同組合の協同工場があり、三菱重工に部品を納入する予定だったが、幻に終わった。
(・_・)
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NHK
ブレイキン頂上決戦
(・_・)
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みうらじゅん
◆プロレスは小学生のときテレビで観てた。
国際プロレスが大好きだったんですけど。
その頃、女子プロはジャンボ宮本の時代でね、小人プロレスの試合も一緒にあったりね、京都に来たとき、一度観に行ったことがあるんですよ。
あのへんのなんとも言えないトラウマプロレスが好きになっちゃったもんで、それがのちの格闘技に行けなかった理由だと思うんですよね。
■たしかにみうらさんが格闘技を観るイメージはないですね。
◆あの国際とか奇妙なほうに行ってたのがサブカルに向かったんじゃないかと思うんですけど。
「これはやらせじゃないか?」っていう声に反発してた人たちは正統なほうに行ったんだろうけど、俺はやらせOKでしたから。
やらせがないとおもしろくないというか(笑)
■むしろ(笑)
(・_・)
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■立浪監督は、感情を表に出すのか、淡々としているのか、ずっと身近で見ていていかがでしたか?
福留孝介
◆感情を出す時もありましたよ、もちろん。
逆に出さなきゃいけないだろうなと思います。
今の若い子たちに、監督自身が、自分は今こういう感じなんだっていうことを伝えないといけない。
そう思った時には、おそらく出していたと思う。
1度、無得点で勝てなかった試合終わりに、選手ロッカーのところでミーティングが行われ、結構しっかりとした口調で強く言われました。
けれど、それは言われて仕方のないことだろうなって思いながら、僕らは聞いていました。
これが若い選手たちにどう響くのか、若い選手たちがこれを聞いてどう思うのかっていうのは、これからじゃないとわからないことですよね。
(・_・)
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越中詩カ
「お前、なにが上がらない理由なんだ?なんの心配があるんだ?全部、俺の力で飛ばせる話だろ?だから今日は私服でリングに上がって、小林に挑戦するって言え。それだけだ!」って。
僕は「いや、それはできないんです」と言うしかない。
そこでまた天龍さんが「越中がそう言ってるんですから、その気持ちを汲んでやってください。今になってリングに上がれって…越中がそんな行動を取れるわけないじゃないですか。越中の言ってることが正しいじゃないですか!」って、それこそ馬場さんに食って掛かるように言ってくれたんですよ。
天龍さんはね、長州さんたちが全日本に来て僕があぶれて放り出されたようになっていた状況を分かってくれていたんですね。
(・_・)
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ドラHOT
ドラ 仲地
(・_・) 腕が強く振れる
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村田兆治
■村田さんの対戦相手で印象に残るバッターはいましたか。
愛甲猛
◆門田博光さんと村田さんの対決は面白かったですね。
門田さんが村田さんのフォークボールを狙って、落ちる前に打ってやろうと思ったのか、歩きながら打ったことがあるんですよ。
昔は、今の時代にはない「武士と武士の戦い」みたいなことがあったんですよ。
■そこはもう、常に「真っ向勝負」という村田さんの姿勢があったからなんでしょうね。
◆村田さんほど「視界の狭い」野球選手はいなかったんじゃないですか。
変化球でかわすとか、投球術で打たせて取るとか、そういう考えがない。
真っすぐとフォークだけです。
たまにスライダーっぽい球、カーブっぽい球を投げることもありましたけど、常に真っ向勝負でしたよ。
打たれても納得しているところがありました。
バッターも村田さんのときはもう真っすぐしか待っていない。
その戦いが、すごく面白かった。
130球投げたら、その130球全てが全力でしたから。
「抜く」なんてことを知らない人でした。
(・_・)
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武藤敬司
1989年の暮れ、フロリダに住む武藤を日本から若松市政が訪ねてきた。
「12月ぐらいにフロリダに若松さんが来て『新しい団体をやるから、来て欲しい』って言われてね。たらふく美味いもん食わせてもらって『お前が描くプロレスをしていい』って言われたよ」
若松が打ち明けた構想は、大手眼鏡販売チェーン「メガネスーパー」の創業者で社長の田中八郎が旗揚げを計画していた新団体だった。
メガネスーパーは、田中が73年に「ニュー湘南眼鏡」を神奈川・小田原で創業し、76年に埼玉・大宮でオープンしたチェーン店で、高価だった眼鏡を他店より安く提供するディスカウント販売で業績を伸ばし、当時は業界大手の規模へ成長していた。
一方の若松は、73年に31歳で、国際プロレスでデビュー、カナダで武者修行後、84年8月からは、覆面レスラーのストロング・マシーンのマネージャーとして新日本プロレスに参戦し、拡声器を手にアントニオ猪木を挑発する悪役マネージャーとして奮闘した。
まったく接点のなかった田中と若松だったが、当時、新日本の専務だった永里高平を介して二人は知り合ったという。
(・_・)
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越中詩カ
「最終的に僕は『今日は本当に挨拶に来ただけで申し訳ないんですが、帰ります』と言って馬場さんの部屋を出たんです。その間、30分か40分だったけど、本当に長い時間に感じましたね。
馬場さんは最後まで一度も僕に顔を向けてくれなかった。
僕がイエスの返事をしない限り、見てくれないということだったんでしょうね」
その場に天龍がいてくれたことが最大の救いだった。
もし偶然、天龍とロビーで会っていなかったら、越中の運命はまた変わっていたのではないか?
「本当に不思議ですね、天龍さんに会ったことも含めて。
もし僕が『わかりました』って八戸のリングに上がっていたら、また人生変わっていたろうし。
ただね、馬場さんにはもう二度と会うことはないんだろうなって思いましたね。
そうしたら本当に会わないまま終わってしまってね。
だから、最後に見たのは馬場さんの大きな背中だった…」
足早にホテルから立ち去ろうとする越中を天龍が追ってきた。
ロビーで立ち話になると、「お前、金ないんだろう?」と天龍が言う。
図星だったが、越中は無理に笑顔を作って「いえ、大丈夫ですから」と答えた。
(・_・)
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