653 >>651 手塚治虫は昭和27年に上京して最初は東京都新宿区四谷の八百屋の2階に下宿していたが、やがて昼夜を問わぬ編集者の出入りの激しさについて八百屋の主人から苦情を言われるようになった。この時、手塚は、学童社の加藤謙一の次男加藤宏泰から、宏泰の住む新築アパート「トキワ莊」へ入居するように誘われ、昭和28年の初頭に住人となった。これを皮切りに、学童社が自社の雑誌に連載を持つ漫画家の多くをトキワ荘へ入居させた。最も多い時期には7、8名の漫画家が居住し、またその仲間の漫画家も出入りするようになったため、「マンガ荘」というニックネームまで付けられた。 才能ある漫画家たちがトキワ荘に集まった背景には、寺田ヒロオの「空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい、新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあった。このほかに「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と「他の漫画家の穴埋めでもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている。 匿名さん2021/10/17 12:101