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エンタメのひろば36-4
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今度も、わたし(@◎@)とオレ( - )が
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>>346
全英チャート1位を獲得したXジャパン
デビュー時は髪を立てていたが、今は立てていない
どうも固めるスプレーが問題らしいのだ。立てられないのだ。
ヘアスプレーのフロンガスが環境の問題で使用禁止になり
速乾性の高い液を飛ばせなくなったのが原因なのだそうだ
今のガスでは、口元から噴出した瞬間にスプレーの先で固まり詰まってしまう。これまで髪を立てるほど強力なヘアスプレーの薬が、髪のほうまで届かないで固まってしまうとのこと
▲▲▲▲
(・_・)
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あっ、どうも。
ヽ(ヽ・_・)(・_・)Ш -
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なんだ、週末のナゴヤドームなのに、オープン戦中継なしか。
(・皿・)
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(・皿・)(・皿・ ) 明日は高校野球は始まります
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あっ、もう始まりますか。
ヽ(ヽ・皿・)(・皿・ )
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1933年、髑髏島に出現した第8番目の謎『キング・コング』。
人智を凌駕したこの怪物巨漢は、世界中の観客の視線を釘付けにすると同時に、数多の興行師の野心に火をつけた。
オリジナル『キング・コング』が本邦で大ヒットすると、さっそくわが国でも『和製キングコング』(33年)、『江戸に現れたキングコング』(38年)が公開された。
これらの作品はいずれもフィルムが失われ、スチルや宣材が残されているのみだが、あらすじを見る限りでは巨大怪獣は登場しないようだ。
むしろ大仏様が名古屋の街を練り歩く『大仏廻国・中京編』(34年)のほうがコングテイストを受け継いだ作品だったかもしれない。
東宝キングコングよりも早く我が国に上陸した怪物巨猿は、連続テレビ映画『月光仮面』(58年)の第3部に登場したマンモス・コング。
異様な迫力と存在感で描かれ、その悲劇的な最期も含めて出色の出来だった。
(・_・)
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1958年12月23日、暮れも押し詰まったシカゴの町は鉛色のガスに包まれていた。
行き交う自動車から照らされるヘッドライトの光と町のネオンが、まるで幻想的なシルエットの世界を作り出していた。
町を歩く人たちも何となく急ぎ足だった。
明日はクリスマスイブ…町の中にはジングルベルの曲がたえず流れていたが、その音もガスの中に吸い込まれてしまいそうな妙に重苦しい夜だった。
そんな雰囲気の中、シカゴ市内のアンファイ・シアターの前だけは異様なほどの賑わいを見せていた。
ニュー・カマー・タイガレス・ユリー≠ニいう電光掲示板がガスにけむる闇の中で不気味な光を放っていた。
その夜、行われるプロレスの定期戦のPRである。
その夜のメインイベントのバディ・ロジャースvsジョニー・バレンタイン戦の文字に比べると、その半分ぐらいの大きさだったがタイガレス・ユリー≠ニいう文字が何となく妖しいばかりの光を放っているように見えた。
「タイガレス・ユリー?聞いた事のない名前だな」
会場の前では、その電光掲示板を見ながら、人々がそんな会話を交わしていた。
( ・_・)(・_・ )
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1977年9月28日
本塁打王9回、打点王7回、首位打者1回、MVP5回、ベストナイン19回…戦後屈指の強打者にして、頭脳的なリードで6度のリーグ優勝に貢献。
70年からはプレーイングマネージャーを務めるなど、南海では絶対的な存在であった野村克也がシーズン終了を前に解任されるという前代未聞の事態が起こった。
9月25日、南海の川勝オーナーが「野村君では、チームを掌握することはできないだろう」と今季限りで解任することを明らかにした。
ペナントから遠ざかっていたこともあるが、大きな要因は公私混同≠ノあったとされた。
数年前に知り合い、深い付き合いを続けていた野村監督の愛人(現・沙知代夫人)が球団内部のことまで干渉するようになっており、目に余るまでになっていたことから野村へのナインからの反感が強くなっていた。
(・_・)(・皿・ )(・皿・
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野村は「まな板の上のコイの心境や。辞表を出す考えもない」と話した。
これまでチームのために尽くしてきたのになず追い出されなけるばならないのか、と忸怩たる思いを抱えていたようだ。
27日には森本代表から会談申し入れを「精神的に混乱しているから」と拒否し、教え子で抑えのエース・江夏豊とともに行方をくらました。
また、助っ人のホプキンスのほか、ブレイザー、山本忠男、高畠康真らコーチ陣が野村監督に追随して退団を表明。
南海としては24年もの間チームに尽くしてきた野村に対し、「引き際はきれいなものにしてやりたい。できることなら自分から辞める形に」と、解任ではなく自ら退任する形を望んでいた。
その後も電話で連絡を取ったが応じなかったため、公式戦2試合を残した28日には正式に野村の退団が決まった。
(・_・)
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野村は「非常識だ。人の一生を台無しにする気か」と憤りを隠さなかった。
野村はその後、一兵卒として金田正一率いるロッテに活路を求めた。
監督から平選手への転身は極めて珍しいケースであり、野村の「生涯一捕手」は流行語にもなった。
西武に移籍後、3000試合出場を達成して80年限りで引退。
「野村さんのいない南海にいる意味はない」と江夏も広島に金銭トレードで移籍。
最後まで野村と行動を共にすることを主張しロッテ移籍を望んだ柏原も翌年、合意のないまま日本ハムに移ることとなった。
(・_・)
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