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キュウちゃんと語ろう 423
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はい
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>>429
↑
相も変わらず識別できんコちゃんやね
433
>>426
>>414では
『その捨てスレとやらの方が先にたった』
と嘯いてたくせに、今度は
『重複スレが延びるわけねー』
ですか(笑)
気にしてんのはどっちですかねッと🎵
相変わらず一貫性がないね、まあ、文法的に齟齬がないだけまだマシ、かな(笑)
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腹減った(;-Д-)···なに食お
ッてか、外に出るのもメンドッちい
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オスマン帝国の「ハーレム(ハレム)」とは、どんな場所だったのか。九州大学大学院の小笠原准教授は「中東・イスラム世界では『後宮』を指すが、外国人の偏見と憧れによって現実離れした意味で定着してしまった」という
■数百人の女奴隷がいたハレム
「ハレム」という語は、アラビア語の「ハラム」に由来しており、もともとは「禁じられた」という意味である。そこから派生して王宮や家庭において、よそ者の入り込めない限られた空間、すなわち「後宮」を指す言葉として用いられるようになった。
では、ハレムで働く女性は、どのようなルートを通じてハレムに入ってくるのだろうか。
彼女たちは、基本的に奴隷身分であった。奴隷として購入されるわけであるから、まず思い浮かぶのは奴隷市場であろう。混み合う広場につくられた台の上で、奴隷を連れた奴隷商人が売り口上を張り上げ、周囲の買い手たちが競り合って奴隷を購入する…
中東をモデルにしたフィクションでおなじみのこうした風景は、宮廷の女奴隷たちに限っていえば関係のないものだった。ハレムで働くような高級な奴隷の購入は、こうした公衆の市場ではなく、商人の邸宅で行われたからである。
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ハレムに購入される女性は、容姿やふるまいについて欠点がないことが求められる。少しでも瑕疵のある奴隷はハレムに入ることができなかった。
例えば、歯が欠けていると金額が安くなったし、扁平足であれば不吉だと見なされて買い手が付きにくかったという。
■女性たちはどこから連れてこられたか
とはいえ、奴隷商人からの購入は数ある方法のひとつにすぎない。それ以外には大きく分けてふたつのルートがある。
ひとつは、戦争捕虜である。
ヨーロッパと繰り広げられた戦いのなかで捕らえられ、奴隷となった者たちが男女を問わず存在した。たとえばムスタファ二世(在位1695〜1703年)は、トランシルヴァニア遠征で捕虜とした女奴隷を母后に贈っている。また、帝国海軍や帝国の息のかかった海賊たちは、しばしば地中海の小島や航行する船を襲い、奴隷を獲得して宮廷に献上した。
ハレムに購入される女性は、容姿やふるまいについて欠点がないことが求められる。すこしでも瑕疵(かし)のある奴隷はハレムに入ることができなかった。
例えば、歯が欠けていると金額が安くなり、扁平足であれば不吉だと見なされて買い手が付きにくかったという。
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もうひとつは有力者からの献呈である。
もちろん、献呈される前は、商人から購入されるか、あるいは戦争や略奪によって奴隷となった者だったろう。大宰相など有力臣下は、手持ちの女奴隷のなかから、選りすぐりをスルタンに献上した。その対価として恩恵を受けることが目的であったが、女奴隷が出世したあかつきには、彼女は宮廷との重要なパイプ役となりえたはずだ。
また、母后や王女たちも、しばしば子飼いの女奴隷をスルタンに献上している。クリミア・ハン国やジョージア王国から、外交の贈り物として奴隷が献呈されることもあった。
■イタリア系からギリシア系ロシア系も
イスラム法では、ムスリムを奴隷とすることは許されていない。そのため、奴隷はすべて非ムスリムに限られている(奴隷となったのちにイスラムに改宗するのは可能である)。また、非ムスリムであっても、帝国臣民を奴隷とすることは許されなかった。そのため奴隷は、基本的に帝国外の非ムスリムから供給された。
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ハレムに入る女奴隷の出自としてまず挙げられるのは、ギリシアやイタリアなどの地中海出身者である。たとえばムラト三世の母后ヌールバーヌーはイタリア系であり、ヴェネツィア船に乗っているところを海賊に捕らえられ奴隷となった。またムラト四世の母后キョセムは、エーゲ海の小島の出身でおそらくギリシア系であったが、襲撃にあって奴隷になったのである。
また、ロシアやウクライナなどの北方出身者も多い。黒海北岸に勢力を広げたクリミア・ハン国は、これらの地域を略奪して、獲得したスラヴ系の奴隷をオスマン宮廷に献呈していた。スレイマン一世の寵姫ヒュッレムや、メフメト四世の母后トゥルハンは、そうした出自である。
■時代とともに変化した奴隷の供給源
しかし、17世紀には、奴隷の供給源に変化が見られた。オスマン帝国の地中海方面での征服活動が停滞したこと、そしてクリミア・ハン国が台頭するロシアに押され活動範囲を縮小していったことが、その原因である。それに代わって、コーカサス地方からの奴隷が徐々に増加していった。
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カスピ海と黒海に挟まれたこの狭隘な地域には、ムスリムではあるが、自民族のなかで奴隷を用いる慣習が根付いているチェルケス人が居住しており、重要な奴隷の供給源となった。おなじくコーカサス地方に住むムスリムのアブハジア人、そしてキリスト教徒のジョージア人も、やはり奴隷の供給源となった。18世紀以降、ハレムに入る女奴隷のほとんどは、コーカサス地方の出身となる。
女官のなかには、少数ではあるが黒人もいた。彼女たちはカイロからイスタンブルに送られたというから、もともとの出身地は、男性の黒人奴隷と同様、エチオピアやスーダンだったはずだ。彼女たちは、白人奴隷の女官に比して重労働に従事することが多かったという。
■名前として花や宝石の単語を与えられていた
こうして、女奴隷たちは様々な経路をとおしてハレムに入り、女官としての人生を始めることになる。彼女たちはまずイスラムに改宗し、ハレムに住まう女性として新しい名を与えられた。
生まれたときからの名前(ほとんどの場合、キリスト教の洗礼名だったはずである)を捨てることを余儀なくされた彼女たちは、どのような名でハレムでの生活を始めることになったのだろうか
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彼女たちに与えられた名には、花や宝石や美しさにかかわるペルシア語の単語が多かった。ギュルスタン(薔薇園)、デュッリー(真珠のような)、ナズペルヴェル(媚態のある)など。チェスミスィヤフ(黒目)やメフタブ(月光)といった身体的な特徴や自然にまつわる名称もよく用いられた。
この命名は、彼女たちはあくまでスルタンの所有物であるという性格を、よく表しているといえよう。こうした名を一般のムスリム女性は名乗らない。市井の人々がこれら特徴のある名を聞けば、彼女はハレムの奴隷だ、とすぐに悟ったに違いない。
新しく名前を与えられた女官は、みずからの名前を忘れぬよう、そしてほかの女官たちに名前を憶えてもらうため、紙に名前を書いて胸に縫い付けられた。ただし帝国最末期のハレムでは、新しい名前を与えられることなく、本名が使われていたようだ。
女官たちの給金は、その職階に応じてさまざまであった。少し経験を積んだ女官は、軍人並みの俸給を得ていたようだ。
このほか、宗教祭や王族の結婚式など、慶事の際は特別の下賜が行われた。衣服や生地は日常的に支給され、ハレムの女官としてふさわしい身なりをすることが求められた。
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お、阪神爆弾💣️、DeNAが食らったか😀
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