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エンタメの広場49
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北川景子には、なにかあった時に手をさしのべてくれそう的な幻想がある。
指原莉乃には、あの娘とどこかで愛し合える予感がある。
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報道ステーション
ドラ 田島
(・_・) なんで太鼓腹なんだ?
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大鵬
1940年、樺太の地でウクライナ人の父と日本人の母との間に生まれ、戦局の悪化で北海道へと渡る。
家庭は貧困を極め、定時制の高校に通いながら家計を助けていたところ、巡業に来ていた当時の二所ノ関親方の目に留まり16歳で入門。
そして61年、入門からわずか5年という考えられないスピードで横綱に昇進した。
まだ、若干21歳だった。
71年の5月に引退するまで、幕内での優勝は32回。
この記録は白鵬に抜かれるまで燦然と輝き続け、そのあまりの強さに、「巨人、大鵬、卵焼き」という高度成長期の日本の代名詞にまでなった。
「でもね、大鵬さんは巨人が嫌いだったんだよ」
と証言するのは、63年12月、まだ13歳で二所ノ関部屋に入門した嶋田源一郎少年、のちの天龍である。
(・_・)
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日ハム 吉田輝星
ド迫力ブルペン。
あ〜あれは凄いなあ、ぶっ壊れるんじゃないかってくらい腕を振っている。
一流投手の匂い。
(・_・) マウンドでどうか。
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2.19
1999年2月1日。
その前日の1月31日、午後4時4分に亡くなったジャイアント馬場の訃報が、ニュース速報という形でテレビ画面に流れたのは、午後7時すぎのことだった。
まさか…。
前年12月から入院中であることはプロレスファンにとって周知の事実だったが、快方に向かっていると伝えられていた。
「馬場が死んだぞ」。
こうしてあの日の記憶を鮮明にたどることができるのも、おそらくは30歳以上の人間に限定される。
ティーンエージャーのプロレスファンにとって、ジャイアント馬場は歴史上の人物でしかない。
それが没20年という歳月の長さである。
(・_・)
234
『AERA』による秋山準インタビューが目に留まった。
91年7月。
当時専修大学4年の秋山は、都内のホテルで馬場と初めて会った。
その席で次のように言われたという。
「この先いろんなことが起こると思うけど、みんなプロレスをする仲間だということを忘れてはいけない」
プロレスというひとつの学校。
そこに存在した2つの教室。
ジャイアント馬場組とアントニオ猪木組。
それぞれの生徒は、同じ学校に通いながらほとんど接点を持たないまま日々を過ごしていた。
しかし、馬場にとってはみんな仲間だった。
プロレスの名のもとに闘う意志を持つ者は、みんな仲間だと認識していた。
2.19両国大会のメインイベントに登場する猪木組出身の棚橋。
学生時代に全日本の試合会場でリング設営を手伝ったことがあるという。
その際、スタン・ハンセンの「ウィー!」に合わせて棚橋も「ウィー!」とやったところ、馬場夫人の元子さんに見つかって「アルバイトはやらなくていいの!」と怒られたという。
元子さんの怒りを知る棚橋。
立派な「馬場組」の仲間だ。
(・_・)
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(・_・)(・_・ ) 馬場組はプロレス界全体をみていた
本家本元の組長だった馬場
枝の組の台頭、ファン離れを見てきた馬場組
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>>229
なるほど、エロキングを倒したお姉さんは週刊誌、女性セブンだったというオチか
ロズウェルさんは言っている、お前は変態だ
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あ〜馬場は見てましたか。
ヽ(ヽ・_・)(・_・ )
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秘密基地の思い出 パート2
準備中、乞うご期待☆
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