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エンタメのひろば40
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エンタメテイメントをカタルーニャ♪
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カーリング
吉田姉妹のデッ尻は魅力。横からのショットでは丸いラインが丸わかりなのだ。
(--)_(--)
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『猪木という大河〜東京プロレスの残像』
井上義啓というポンコツ記者がいた。
小柄なこの記者は一風変わっていた。
いつも長髪をリーゼントになでつけ、さして高価でもないポマードでカチカチに固めていた。
おかしいことは他にもあった。
だれ一人ネクタイなどしていないのに、いつ見ても、さほど高価ではないネクタイをきちんと締めていた。
そう、この記者は、さほど高価ではない変わり者だったのである。
昭和41年11月19日。井上義啓という風変わりな記者はひどく感動した。
言葉では言い表せないものを大阪球場でゴツンと感じたのである。
わけのわからない猪木ショックに襲われた。
《これだ!これがオレの言うプロレスなんだ!》
メーンイベントが終わった後も、この記者はボンヤリと粗末な半壊した机の上に片ひじをついたままだった。
なぜか、ゼブラのボールペンが一本、落っこちもせずに、傾いた机にへばりついていた。
この時、井上義啓というプロレス記者が誕生した。
φ(・_・)
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さらば 宝石
引退して数年たつのに、Eは依然として3時間から6時間のハードトレーニングを自宅で続けている。
彼の家の近くを通ると、苦し気な表情をして走るEの姿をよく見かけることがある。
噂はそういうものだった。
いつかどこかの球団が自分を必要とし迎えに来てくれる、と頑なに信じこんでいるらしいというのだ。
そういえば、Eほどの選手がいつ引退したのかも記憶にないのは奇妙なことだった。
球団でコーチをしているという話もきかなかった。
それだからこそ、Eは今も球界に復帰しようとしているのかもしれない。
そう説明することも確かにできる。
だが、彼が望んでいるのはコーチや監督でなく打者としてなのだ。
彼はやがて40になろうという年齢である。
往年の名バッターが採用されるあてもなく、老化しようという躰に鞭打って猛訓練を続けている。
この噂は無惨なものである。
その上、彼はすでに精神的に「錯乱」しているのではないか、という人もいた。
(・_・)
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ビンス・マクマホン
ビンスが誕生したのは、1945年8月24日。
プロレス一家の三代目として生まれ、青年時代から父ビンセント・ジェームズ・マクマホンに従い、新日本プロレスにもたびたび顔を見せていたが、それ以前のことはヴェールに包まれている部分が多かった。
そのあたりの謎を解き明かしてくれたのが、2000年に発行された『ニューズウィーク』に掲載された記事である。
『ニューズウィーク』誌によると、ビンスの誕生後、まもなく両親が離婚。
幼少時はノースカロライナ州の田舎町で母親とその再婚相手によって育てられ、実の父親であるシニアに会ったのは12歳の時のことだという。
この時、シニアは「キャピタル・レスリング」という会社を経営していたが、こちらは小さな地方団体にすぎないものだった。
そして、父親のもとに出入りを始めたビンスは、いつしかプロレスの世界に惹かれていき、やがてキャピタル・レスリングの興行先のひとつ、メーン州バンガーを任せられるようになる。
(・_・)
811
>>802
今の時期に、二桁勝利が期待できる先発の柱が3本いて、その投手を中心に年間ローテを組めなければ、優勝争いはおろか、最下位が見えてしまいますなぁ。先発の柱は慎之介、大野、又吉、あとは笠原、時々松坂あたりなんでしょうかね。柳ジーも期待したいね。
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確かに、猪木は強いしアリも偉大だ。松坂は今でもスターだし、伊調馨とはちがい、王や長嶋は真の国民栄誉賞の国民的スターでした。
しかしですね、私の人生の主人公は私なんです。
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(・)_(・)(・)皿(・ ) ハァハァ。吉田姉妹は体幹を鍛えているそうなので
デっ尻で全身のウエイトバランスを取るのだと思います
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あ〜男女ペアでは、くり〜む上田がデートしているようにしか見えない、と言ってました。
ヽヽ(・)_(・)(・)皿(・ )
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ドラ 浅尾、結果を残しながら二軍落ち。
(・_・) おかしいなあ、浅尾は明らかには冷遇されている
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>>811
中日のコーチは、アスリートのパホォーマンスに重要な、初動負荷理論とかを理解して練習メニューを課しているんだろうか?やはり、コーチをコーチングする事も必要だと思う。
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