000
エンタメのひろば37
+本文表示
【人間発電所】
元祖ニューヨークの帝王ブルーノ・サンマルチノの異名。
650
あ〜ドラ福田は、サードに固定されて、落ち着いて打席に立てているんでしょう。
あ〜清宮の甲子園を元ドラ投手・若林監督の高校が阻みましたか。
・)!!(・_・ノ)ノ
651
プロ野球の世界では
広島カープが初のリーグ優勝を遂げた1975年の秋。
スタン・ハンセンは全日本プロレスのリングに初来日を果たした。
「馬力だけの不器用なレスラー」
ジャイアント馬場は当時のハンセンの印象を著者『王道十六文』の中でこう記している。
馬力だけの男は赤ヘル軍団≠フような旋風を巻き起こすこともなく、アメリカへと帰っていった。
だが、77年1月、今度は新日本プロレスに登場すると、以後ハンセンはスターダムの階段を一気に駆け上がっていく。
(・_・)
652
80年2月には、猪木を下してNWFヘビー級王座を獲得した。
さらに、81年9月23日には東京・田園コロシアムでアンドレとプロレス史に残るド迫力マッチを繰り広げた。
当時は出場レスラーが絞り込まれている段階だった『IWGP』の来るべき本戦においても間違いなく優勝争いの中心になると、おそらくすべてのプロレスファンが認識していた。
ところが、アンドレ戦から81日後の12月13日。全日本の蔵前国技館大会。その3日前まで新日本のリングで闘っていたハンセンが、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして姿を現した。
そして、ジーンズ姿のハンセンは試合に介入。
ブロディ組の対戦相手であるテリー・ファンクに場外でラリアットを浴びせると、試合後には同じくドリー・ファンク・ジュニアを蹴りまくった。
まさに「土足」での暴挙。すると、乱入者に対して激しい怒りとともに立ち向かったのが馬場だった。
ヽ(・ε・ )ノ
653
法律
甲斐よしひろ、浜田省吾を語る。
(・_・)
654
甲斐のベスト盤ええのぅ。
「かりそめのスウィング」いう渋いところをアルバムタイトルにしとる。
-Ш- アコギのバッキングがええんや、この曲。
655
あ〜HEROみたいな曲は案外、異質かも。
あんまり知らないんだけど
Ш - !!(・_・ノ)ノ
656
84年の夏には、
「フレッシュジャンプ」で『エイジ』の月刊連載が始まっている。
連載では初めてのシリアスものだ。
頭身も大きくして、ギャグ漫画ではないということをはっきりさせている。
後に、江口寿史がこの『エイジ』の表紙の人物を描くのに使った写真を見たことがある。
つまり、このころ江口はもう、写真を参考に使って描くようになっていたのだ。
もう、「本物と同じように描く」「正確に描く」ということに囚われ始めていたのだ。
本物と同じように描くということは、絵のグレードは上げたが、ますます作画のスピードを落とすことにもなった。
「ビッグコミックスピリッツ」で『パパリンコ物語』が始まったのは、『エイジ』が中断した、その後だ。
((φ(・_・ )
657
あれは、正味ではいったい、何回あったんだろう。
とにかく、『パパリンコ』は、気づくと休載になっていた。
実感としては、掲載されているよりも休載の時のほうが多かった。
続編の予告もだされたことがあったが、実現していない。
単行本も、結局出せなかった。
この後、江口はストーリーギャグの連載をやっていない。
いや、何度かトライはしたようだが、成功しなかった。続かなかったのだ。
短いものは、いくつかやっている。
「月刊ASUKA」で『なんとかなるでショ!』の連載を86年から88年、「漫画アクション」で、4ページものの『爆発ディナーショー』を88年から89年、などが成功した作品だろうか。
(・_・)
658
スピーディーかつ力強い脳天唐竹割りの連打をハンセンの額に叩き込むと、瞬く間に顔面が血で染まった。
馬場がハンセンを圧倒している!
全盛期は過ぎただの、やれ動きがスローモーだの、世の猪木信者から揶揄されることが多かった馬場が、健在ぶりを見せつけた瞬間だった。
年が明けて1月15日の千葉・木更津大会から、ハンセンは全日本のシリーズに正式参戦。
最終戦となる2月4日、東京体育館大会には王者・馬場に挑戦するPWFヘビー級戦が組まれた。
蔵前ではかつてないほどの力強さを示した馬場だったが、一騎打ちとなれば話は別。
今度はハンセンが圧倒するに違いない。
(・皿・)(・ε・ )
659
馬場も負ければいよいよ引退か。
下馬評ではこうした声が大勢を占めた。
32歳のハンセンに対して、馬場は44歳。
今でこそ40、50代のレスラーも珍しくないが、当時は「もうそろそろ」というのが一般的な感覚。
ちなみに力道山は不慮の死という形ではあったが39歳でリングに別れを告げている。
馬場に引退を迫る声は、団体内部からも湧き起こっていた。
震源地は日本テレビから出向していた松根光雄社長。
馬場をプロモーターに専念させ、世代交代を図っていくと公言していた。
(・_・)(・ε・ )
※このスレッドのコメントはこれ以上投稿できません。