042 案の定「何でそんなところへお参りにいかなければならないんだ」とあっさり断られた。 だがこちらとしては、身延山に行く途中の富士川にかかっているつり橋をどうしても見せたい。身延鉄道という私鉄がかけた通行料のいるつり橋で、かなり老朽化している。これを直したいという下心があるから、なんでもいいからとにかく来て下さいということで、強引に引っ張っていった。 そのつり橋を通る時、私は「大臣、これをつけかえてほしい」と切り出した。保利先生も私の作戦にニヤリとしたが、すぐ例の謹厳な顔に戻って「ウーン、これは危ないな。どうだい、聞いてやろうじゃないか」と側にいた道路局長だか、官房長だかに一言。たちまち「はい、分かりました」ということになり、翌年から架け替え工事が始まった。「政治」の力はかくのごとし。私は大いに感激した。 私には、田中内閣をつくったのはオレだ、という自負がある。その点、竹下はそうはいかない。佐藤さんの下で官房長官をやり、田中さんには命をかけていなかった。そんなことから田中さんに「ゾウキンがけをやれ」と言われるような苦しい道が始まったのだ。 金丸 信2018/09/11 00:001
891 保利茂(1901-79) 1947年、第一次吉田改造内閣で商工政務次官(45) 1950年、民主党連立派幹事長から吉田自由党に入党。第三次吉田内閣で労働大臣2期(48) 1951年、内閣官房長官(50)。抜き打ち解散 1953年、第五次吉田内閣で内田信也の後任の農林大臣(51) 1960年、自民党総務会長(58) 1963-67年、落選(衆院佐賀全県区、6/5) 1966年、佐藤首相は農林大臣への起用を検討するが川島副総裁、田中幹事長らの反対で断念。 1967年、建設大臣・首都圏整備委員会委員長・近畿圏整備長官・中部圏開発整備長官(65)>>42 1968年、内閣官房長官2期(66)。前任の木村俊夫は佐藤首相の涙ながらの要請を快諾して副長官に降格し、副総理格の大官房長官を補佐することとなって、当時これは美談と言われた。 1971年、自民党幹事長(69) 1973年、行政管理庁長官(71) 1976年、衆議院議長(75) 匿名さん2022/08/06 09:14