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昭和49年11月11日、第二次田中角栄第二回改造内閣は発足した。
首相― 田中角栄、法相― 浜野清吾、外相― 木村俊夫(留任)、蔵相― 大平正芳(留任)、文相― 三原朝雄、厚相― 福永健司、農相― 倉石忠雄(留任)、通産相― 中曽根康弘(留任)、運輸相― 江藤智、郵政相― 鹿島俊雄、労相― 大久保武雄、建設相― 小沢辰男、自治相・国家公安委員長・北海道開発庁長官― 福田一、官房長官― 竹下登、総務長官・沖縄開発庁長官― 小坂徳三郎(留任)、行政管理庁長官― 細田吉蔵(留任)、防衛庁長官― 宇野宗佑、経済企画庁長官― 倉成正、科学技術庁長官― 足立篤郎、環境庁長官― 毛利松平(留任)、国土庁長官― 丹羽兵助
副総裁― 椎名悦三郎(留任、椎名派)、幹事長― 二階堂進(田中派)、総務会長― 鈴木善幸(留任、大平派)、政調会長― 山中貞則(中曽根派)
この内閣では20人中7人が留任。第一次内閣で浜野法相は行管庁長官、福田一自治相は同じく自治相、足立科技庁長官は農相であった。
残る10人のうち閣僚経験者は2人、新人は8人であった。
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第二次田中角栄第二回改造内閣
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政局の内部から田中内閣を揺さぶるものはまだまだ決定的ではなかった。もしあったとしても田中はこれに対し、すでに構えを固め、十分な準備をして立派にこれに立ち向かったことだろう。だが彼の敵は意外なところから現れ、たちまち田中の急所を突き刺し、一瞬のうちに田中を無能力者に変えてしまうのだ。
雑誌『文藝春秋』が秋の特別企画として田中角栄の金脈と女性関係を取り上げ、これを特集として世に問うことにした。田中についてのこうした醜聞は、いままで何度も企画され週刊誌がこれを取り上げようとしたが、なぜかいつも立ち消えてしまう。ところが今度は総合雑誌がこれを本格的に取り上げた。
田中周辺もその噂を聞きつけ、内々で文春側と打ち合わせによる調整が始まっているらしかった。私は最初のうち商業ジャーナリズムが、どこまで共産党の松本善明の調査に迫り得るだろうかと疑問に思っていた。
田中首相は9月12日からメキシコ、ブラジル、米国、カナダの四ヵ国を訪問、二週間の外遊を終えて27日に帰国したが、外遊中にも国際電話をかけ、帰国してからは直接、担当者を文春側と接触させて強い関心を示した。
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文春側は女性関係と金脈問題の二本立ての企画を立てたらしかったが、田中側は女性関係(越山会の女王、佐藤昭)により関心を示したという。
10月10日前後から全国一斉に発売された『文藝春秋』11月号は案の定 大きな反響を呼び たちまちのうちに売り切れとなった。
石油ショックで通産当局は総需要抑制策を強力に推し進め引き締め政策に乗り出していた。ここから不況の風が吹きはじめ高度成長政策は明らかに屈折点にあった。三ヵ月前に行われた金権選挙が改めて思い出された。時代の波を先取りするかのようなこの田中金権問題は 燎原の火のように燃えはじめた。どこへいっても話題は「金権」「越山会の女王」だ。田中首相への風当たりは一変しはじめた。
社会、共産党はプロジェクトチームを作って本格的に「田中問題」に取り組みはじめた。10月の終わりから政治情勢の雲行きは完全におかしくなり、誰の目にも政権の前途は容易ならぬものに思えてきた。
10月18日、私は大平蔵相を私邸に訪ねた。
「現体制で政局を乗りきることはとてもできない。田中は強気だろう、内部からの幕引きは考えられないと思う。これは大平さん、あなたがやるしかない」
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「田中は本当をいうと体が悪いのだ。入院するのが一番いいのだが それはできないだろう。田中は『外遊後、改造して臨時国会を乗り切る』といっているが そうはなるまい。やめるしかないだろう。臨時国会を “熱い風呂” と思って一身上の弁明をするのだ。君のいうように田中の後始末はおれしかない」
大平はそういった。私は慎重な大平でさえこういいはじめたのだから 政局の転換は不可避だな、と思った。
情勢はいよいよ慌ただしさを加えた。
10月24日には椎名副総裁が前尾と灘尾の二長老を招いて会談した。これは後に重大な意味をもつが 私は当時ほとんどこれを無視していた。田中に万一のことがあれば そのとき決定的な役割を果たすのは大平だ、と頭から信じきっていたからだ。
10月31日の夜8時、私は大平と会った。田中はまだ外遊中であった。
「まず両院議員総会を開いて新総裁を選ぶ、できれば党大会を招集すべきだ。正式の手続きをとるのが正しいと思う」
私がこういうと大平は
「総理総裁の分離論はどうか、おれが総理で田中が総裁ではどうか」
と問い返す。
「物事は簡単明瞭にしておくのが一番いい。暫定はいけない。本格的な総理総裁にすべきだ」
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私がこういうと 大平は深く考えつつ
「ラングーンの記者会見が重要だから おれから手紙を書いておこう。帰国後の記者会見は一番重要だ」
といった。
11月1日、私が朝日の中島記者と会うと
「椎名副総裁の暫定総理総裁論が強い。公選をやれば大平だ。だが大平は公選をやりきるだろうか」という。
中島記者の話は極めて重要な内容を含んでいたのだが 私は昨夜 大平と打ち合わせたばかりだったので「そういう見方もあるのか」と見過ごしてしまった。
この日 “田中に近い筋” も大平と同じことを私に語っている。
「田中は強気で行き倒れになるまで頑張るはずだ。メキシコ、ブラジル、米国、カナダから帰った田中はこの肚になって 二階堂の幹事長だけを決めてまた外遊に出かけて行った。帰れば電光石火 改造して突っ切るだろう」
「ラングーンと帰国後の記者会見の二つが大切だ。帰国後の記者会見では 財産を一切 国に寄付することを断言させる。今このことを検討している」
私は事態が私の理解している通りに進んでいると安心した。
11月8日に田中首相は外遊から帰国した。
私は二日前、共産党筋の話を聞いたベテラン政治記者から おかしなことを耳にした。
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「田中は宮中の檜材の払い下げを受け、これを新潟に送って母親のために檜御殿を造った。なんでも村の名所になっている。これが宮中の払い下げ材だとは誰も知らないらしい。共産党がこれをとりあげて最も効果的に報道させようと某新聞社に売りこみにきている。これを公表したら右翼が激昂するだろう」
というのだ。真偽は別としていやな話だった。こういう色んな怪情報がとび出しては 田中周辺も応接にいとまがないだろう。
田中首相と官邸記者団との会見は11月11日に行われた。この日、田中は三度目にあたる内閣改造を行い “改造劇の途中、一時間ほど記者会見をはさむ” という離れ業をやってのけている。
この改造で新たな入閣者は13名に及んだ。ところが田中首相は 二週間後の11月26日に辞意を表明しているから、この新入閣者は15日そこそこの閣僚として終わったことになる。田中はそんなことはおくびにも出さなかった。総辞職を胸に秘めた改造など おそらく政治史上初めてのことだろう。
田中首相の記者会見は苦しい言い訳に終始した。金脈について釈明らしい釈明はほとんどなかった。
「私有財産は一切 国家に寄付する」という言明もなかった。
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「自分の財産は必ず国民の前に公表する」といった趣旨の話はあったが、この約束はついに実行されず今日に至っている。
11月13日、私は大平から電話をもらい瀬田の私邸に呼び出された。
「国会は開けないだろう。そんなことをしたら大変なことになる。野党の総反攻の前に内閣は立ち往生する。野党はキメ手をつかんだ感じだ」
私がそういうと、大平がいった。
「おれもそう思う」
「臨時国会を開くのなら 田中が一身上の弁明をしてそこで辞意を表明し 新政権を作るしかない」
「同感だ」
大平の心は田中退陣に定まった感じであった。
その翌日、宏池会の下村勉強会に出ると 出席者から政局の動きを聞かれた。私は
「この内閣が倒れるのは時間の問題だと思う。ガンが転移してしまっている。手術をして開けてみたらガンだと判った感じだ。誰もこれは救えない」
といった。黒金泰美が出席していて
「うまくやらないと椎名になるかもしれない」
とつぶやくように一言いった。私はピリッと緊張した。私はこの時初めて 田中の後継者に大平以外の者がなるケースを意識した。だが次の瞬間
〈椎名が暫定政権を作ったとしても 今の政局ではもちこたえられない〉と思った。
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「そうだ、話し合いなら椎名かも知れない。だがその時は全会一致が条件だ。一人でも反対する者があれば当然公選による多数決で決めるしかあるまい。大平はたとえ福田が後継総裁になってもいい と覚悟をきめて公選に踏み切るべきだ。今一番重要なことは保守合同の原点に返ることだ。大平がこれをやればよい。政権が自分のところへ来る 来ないは二の次だ」
私はこう考え 総裁公選論で思いを整理しつつ気持ちを落ち着けていった。椎名暫定総裁論は私にとっても大平にとっても危険な収拾案であった。
11月18日、フォード米大統領が来日した。この日 私は日本精工の今里広記社長と会うことになっていた。話が政局に及んだ。私は今里が田中と親しい仲であることを百も承知でこういった。
「田中はすべての人を釣ってきた。次期総裁で大平を釣り、幹事長、蔵相のポストで中曽根を引きつけ、今、暫定総裁で椎名を釣っている」
「それじゃ後生が悪いだろう」
今里はそういった。私は
「一番大切なことは保守党を割らないことだ」
というと
「割れたらどうなるか」
と聞き返す。私は即座に
「割れた者同士で連立内閣でしょう」
というと今里は目を丸くしてびっくりした。
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米国から帰国直後の昭和49年11月、金脈問題で追い詰められていた田中首相は局面打開のため内閣改造に踏み切ろうとしていた。しかし官房長官以下全閣僚を替えるが「山中はかえぬ」と言い出した。
「あんたが防衛庁長官に就任する時、永久長官といったろう。ずっとやってくれ」
「沈みかけている船からみんな逃げ出しているのに 艦長と一緒に残る気はないよ」
「冷たいな」
「そうじゃない。内閣は連帯して責任を負うことになっているので 一人だけ閣内に残る気はないと言っているだけです。しかしあんたは私をこれだけ信じてくれたからもう十分ですよ。私はあなたのいうことは何でも聞きます」
「それなら政調会長をやってくれ」
その時、幹事長には二階堂進氏が起用された。二階堂氏は私と同じ鹿児島三区だ。党三役の二人を同じ選挙区から出すということは これまでの政界の常識から外れている。私がそのことを質すと 二階堂氏がすかさず「私は構いませんよ」。角さんは「お前らは仲良しなんだから一緒にやってくれよ」。こんなやりとりがあって田中首相を補佐する党三役に入った。
政調会長は田中首相の退陣でわずか一ヵ月で終わった。
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