これがよく問題にされているようだが、これはエバリー特使と鶴見外務審議官、小松通商局長との間で行われたもので、私はただ通産省で表敬訪問を受けただけのことなんだ。
児玉誉士夫との関係も色々取り沙汰されたことはあるが、深い交際など一切ないし、政治資金の授受などもないよ。とりわけ佐藤三選の時、児玉氏とつながりのある北炭の萩原吉太郎、大映の永田雅一両氏から佐藤支持を求められて それを断ってからというもの、萩原氏たちとは全く疎遠になっている。ポスト佐藤をめぐって萩原氏から『福田赳夫氏を支持してほしい』と働きかけがあったのは確かだが、それ以上 具体的には何もなかった。
いずれにせよ ロッキード事件での身の潔白は確信している。そうでなければ三木政権の幹事長など、とても務めていられるものじゃない」
この中曽根談話も この29日付朝日新聞朝刊に掲載された。
といっても紙面が読者に与える印象は、あたかも「中曽根も黒い」式であった。それはこの上もなく 中曽根を憂鬱にさせるものがあった。
ロッキード社資料については検察、ジャーナリズムも政界も、ある誤認をしていた。

「この資料を見れば誰がいくらロッキードから献金を受けたか、全て解る」というものであった。
しかしロ社資料はそういったものではなかった。米上院多国籍企業小委員会の後を承けて、この事件を扱った米上院の都市・住宅・物価問題小委員会の証言台に立ったロッキードのハーク会長は
「これはコーチャンの行動メモ、東京支社、丸紅などの業務的な報告書、また聞いた話の取りまとめで、日本政府の高官の誰にいくら渡したなどという記録はない」と証言したものである。
そこで証券取引委員会のヒルズ委員長が
「従ってロ社資料は公表すべきではない。これを公表すれば そこに名前が記されている人々が誤解を受け、人権侵害、名誉毀損というケースが起きる。ロ社資料はあくまで検察、警察、あるいは国税当局の捜査資料としてのみ使用を限定すべきである」という提案を行った。
これに基づいて米国務省は4月下旬、日本政府にロ社資料を引き渡すに際して12項目から成る引き渡し協定を作り、その一項目に「公表禁止」を加えたのだ。ところが日本側のジャーナリズム、野党は
ー名前が出ている者は全部クロ。
と誤認していた。だから「公表せよ」と論じ立てた。

引き渡されたロ社資料を直接閲覧できたのは検事総長と少数の担当検事だけといわれたが、彼らもこれを手にして自分たちの誤認を知ったのである。
そこには実に230人にのぼる政財官界人の名が記されてあったが
ー何月何日、コーチャンがＡ閣僚を訪問。
ー丸紅幹部からコーチャンはＢ代議士との接触をアドバイスされた。
といった式のものがほとんどだったからだ。検察庁は
ーコーチャンの運動経路はわかったが、一つも贈収賄の決め手にはならない。
と、そこで独自の裏付け捜査を行わなければならなかったのである。捜査を進めていくと、そこに名前が出ていても
ーコーチャンに会ったこともない。
ー丸紅の幹部とは交際がない。
という人々が実に多く、ほとんどが白になっていった。黒として逮捕できる者は、結局 田中と、その一か月後の8月下旬に逮捕された橋本登美三郎、佐藤孝行の三人だけになってしまったのである。
現実には この「ロッキード社資料」の新聞記事に触発された形で 反主流派の間からは
「三木陣営は椎名の三木おろしをロッキード隠しだなどといっていたが、今度 三木は中曽根隠しをやるのではないか」
といった批判が飛び出すことになった。

それが中曽根の胸に いっそう暗い気分を澱ませた。

田中逮捕からの両三日、衆議院のロッキード特別委員会でも野党側の追撃は激烈さを加えた。この29日は社会党の稲葉誠一が稲葉法相に攻撃をかけてきた。
「田中前首相が檜山丸紅前会長から五億円を受け取った時期からいって、この金は49年の参議院選挙に使われたとみるのが常識だ。とすれば、この選挙で総指揮をとった人物は自民党の幹事長らしいが、同人を取り調べないのか」
稲葉は具体的に名前こそ出さなかったものの、その参議院選挙の時の自民党幹事長は橋本登美三郎であった。朝日新聞がロッキード資料の中に、橋本の名前が出ていると報道したのに勢いを得ての質問であった。稲葉法相は
「田中逮捕によって捜査がヤマを越したかどうかわからないとしか、今はいいようがない」
と突っぱねた。
それを稲葉誠一は さらに再質問した。
「ただいまの法相の答弁の意味がわからない」
稲葉法相は再びマイクの前に立った。
「今あなたが名指ししなかった人についても 捜査はヤマを越していない、ということでわかってもらいたい」
政治の素人が聞いていたのでは、わけのわからないような答弁であった。

だが稲葉法相は
ー捜査はヤマを越えたわけではないから、橋本以外にも取り調べることがあろう。
という意味のことを答えたのである。
そうした間にも、じわじわと不気味に三木おろしの活動が始まりつつあった。反主流派である福田、大平、田中各派がそれぞれに会合を開き、また派閥相互の間で連絡会を開くなどの動きが その両三日、これまでになく活発化した。
これらの会合で話題になったのは、27日夜の主流派による赤坂会談であった。
「主流派は何をしているのだ。事件、捜査の責任者である法相が、派閥の連絡会に出席するとはうなずけない」
「いくらこれからの政局運営の下話をするといっても、前総理が逮捕された晩に行うなどとは一体どういう神経か、不謹慎きわまりない」
「三木は田中逮捕の際の記者会見で派閥的言動を慎むといいながら、自らの派ではやっているではないか」
「これは中曽根隠しの相談ではなかったのか」
そんなことが話され、それが直接間接に中曽根や井出の耳に入ってきた。
はじめはこれらの批判を問題にはしなかった当事者たちも、あまりにも批判の声がうるさくなって、問われるままに弁解しなければならない羽目に陥った。

河本は記者たちを前にこう語った。
「ブラジルから帰ったら飯を食おうということで、たまたま集まったんだ。お土産話だけで捜査の内容とか進展など全く話していない」
中曽根は半ば苦笑しながらいったものである。
「僕が出席したのは初めてのことなのだが、定期的に開いているので もしよかったらと誘われてね、30分ほど寄っただけだ。臨時国会は8月中、下旬ぐらいには開きたいなど話は出たよ。しかし捜査の件で誰が白か黒か、そんな話をするわけがない。総裁派と幹事長派の交流と思ってくれたまえ」

「なに？灘尾君が動き始めた？」
三木はありありと不快げな色を面に出し、そう問い返した。海部俊樹官房副長官が
「はあ 灘尾総務会長は今日、椎名副総裁と大平蔵相に会ったそうですが、明日は福田副総理、明後日は水田三喜男、船田中……実力者と会談するそうです」
いよいよ三木おろしが火を噴き始めたのである。それも田中が逮捕された二日後、早くもー であった。
海部が得た情報によれば、灘尾はとりあえず椎名、大平と個別に会って
「ロッキード事件解明後に挙党体制を確立するためには、どうしても臨時国会前に人心を一新することが不可欠ではないか」

そのように説き始めたのである。
この灘尾の動きを注目した記者が灘尾に質すと、彼は昂然と胸を張って
「僕はこうした考えを、これから前尾衆議院議長や河野参議院議長など各方面の有力者にも訴えていくつもりだ。まあ こうした一連の会談をやった後、僕は三木総理にも会うよ。三木総理の見解を改めて質した上で、首相にも諒承を願おうと思っている」
と語ったものである。
灘尾をこうした三木おろしの方向に動かしたものは、反主流派の議員を連ねた有志議員懇談会であった。三原朝雄前文相(水田派)が代表世話人になっている三木おろしの方向に羅針盤を向けるグループだ。
「それにしても……灘尾君がね」
三木には思いがけないことであった。灘尾は かつては反佐藤栄作の立場で三木に好意的な時期もあったのだが、その後は福田寄りになっている。タカ派的な思想からであった。
だが党内的なポジションは無派閥である。先の通常国会での三木おろしに臨んでは表面に立たなかった。

その灘尾が今度は真っ先に三木おろしの狼煙を上げたことが、三木には引っ掛かるところがあった。
ー福田、大平はとにかく、中間派までもが……。厄介なことになるかも知れない。
そんな思いが萌したからであった。
確かに灘尾の行動につられて 8月初めには福田、大平派、また三原の有志議員懇談会それぞれが動き始め、各派間の往来も激しくなった。
ー臨時国会前に三木首相を退陣させて 新体制を作る。
すべてそれを目処とするものであった。
田中派もその方向に針路を向け始めてきた。田中逮捕の後、両三日の間は
ー脱派者が出て田中派は解体か？
ー二階堂、竹下の両グループに割れるか？
などといわれていたのが衆議院議員47人、参議院議員40人が一層の団結を固めだした。当の田中が拘置所から接見の弁護士を通じて
「七日会は結束してくれ」と その意を伝えてきたこともあった。その親分の心情は
「いまさら田中派・七日会を見捨てられるか」
と いかにも義理人情の派閥らしい紐帯感を この87人の集団に甦らせた。それに
「こうなったからといって田中派・七日会を脱けたところで、選挙区や世論の受けがよくなるものでもあるまい」

「落ちるところまで落ちたんだ。もう怖いものなしさ」
そんな開き直りが若手や中堅議員の間に出てきた。またそれが三木憎しの感情も加わって、他派への反撥にまで昂じた。
「田中派だけが悪者にされるのはやり切れない。田中は各派にも資金援助をしていたんだから、受け取った連中の名を全部公表しようじゃないか」
「それに三木だって田中内閣時代の副総理だ。福田にしても田中内閣の閣僚だった。責任がないとはいわせない」
そうした反撥の鋒鋩が 8月6日の七日会の幹部会で歴然と、三木に向けられることになった。会長の西村英一が
「三木君の自分ひとり清しとする行き方も、ロッキード解明を楯にしての政権維持も納得できん。三木体制の総退陣を打ち出そう」とぶち上げたのだ。幹部の中からは
「わが派はいわば謹慎中の身だから、三木倒しの張本人になるのはまずい」という慎重論も出たが、それは「先頭に立つのは避けよう」というだけで、派の大勢は
「福田、大平派が本気で三木おろしにかかるのなら呼応する」というのだった。

三木おろしー これを最初に発火させたのは副総裁の椎名悦三郎であった。先の通常国会時でのことである。
椎名その人は49年の田中退陣の後、三木武夫を総裁にすえ、その内閣を誕生させた生みの親である。当時 政界の消息通は
「三木体制にあっては 椎名は法王、上皇として院政を布くだろう」
と観測したものである。これは三木政権の人事、政策には 椎名の意向が強く働くとみてのことであった。ところが三木は椎名に何一つ諮ることはなかった。
ーどうにも面白くないことだ。
という感情が年老いた椎名の胸に ふつふつと滾り始めたとしても 無理はなかった。ことに椎名を激怒させたのは独占禁止法改正についての三木の姿勢であった。
三木は独禁法の改正に臨んで公正取引委員会の見解、あるいは三木を取り囲む若い経済学者たちの意見に もっぱら耳を傾けた。その結果として作成された公取委の案は「企業の分割」「原価の公表」などが公取委の指示によって行われる、という内容のものだった。
「とんでもない案だ」
と椎名は真っ先に反対した。これをきっかけに反主流派からも、また経済界からも改正案に対する反対論が激発した。